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2006年1月

2006.01.27

香椎宮--宮はどっちを向いている?

kasiimiya955香椎宮本殿の右から奥の方へ上ってみる。
そこは古宮(ふるみや)跡となっている。

祀られているのは仲哀天皇。
突き当たりに御神木の「棺掛椎」がある。仲哀天皇の棺を掛けた椎の木から良い香りがし、これが香椎の名の由来であるという。私としては、「日本書紀」の「到儺縣、因以居橿日宮」(大意:なのあがたに着いてかしひのみやを置いた)のほうが古い気がする。

さらに右奥に行くと、「仲哀天皇大本営」の碑が立つ(写真下)。熊襲征討の参謀本部を置いたということだろう。でも「大本営」は明治になってからの語じゃないのかな?

kasiimiya953面白いのは、大本営の碑と古宮がほぼ西を向いていることだ。熊襲(熊本地方)でなくて新羅に向かっている。仲哀天皇は熊襲を討ちに行こうとしていたのに。
対して、本殿は南向きである。
※香椎宮の地図を参照されたし。
http://www2.odn.ne.jp/kasii-shrine/mainpage.htm
(「境内散歩」のページ)

「西の新羅に行くのだよ!」神功皇后が神がかりして言ったのを、仲哀天皇は「西には海しか見えんぞ」と突っぱねて熊襲にこだわった。
今残るモニュメントが、神功と仲哀のそれぞれ目指した所と入れ違っている。

神功皇后・応神天皇母子の伝説に比べて影が薄い仲哀天皇。名前からして何かもの悲しい。仲哀は妻と大臣・竹内宿禰に暗殺されたとか、応神は仲哀の子ではないとかの説まであるし。
彼は「新羅を討て」という当代の意志に抗った人なんだろうか。もし実在の人であるならば、宮が西のほうを向いているのは本意でないかもしれない。

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2006.01.24

香椎宮と神功皇后--女王伝説のリフレイン

kasiimiya947
香椎宮
現在、歴史の「定説」は、歴代天皇のうち応神天皇以降が実在の人、それ以前は実在性が疑わしい、とされている。したがって神功皇后と応神天皇の間で伝説と史実の線引きがあることになる。

もちろん応神天皇に母はいたわけだが、神功皇后の話に摩訶不思議な事跡が多いために、「いくらなんでもこんなスーパー皇后はおらんだろ」と戦後は考えられてきた。
おそらくは応神天皇はその前の王族を倒して新王朝を創設した人で、血統がつながっていない。そこで日本書紀制作者は応神の母に神がかりの活躍をさせ、応神の正当性を創り、「万世一系」を保たせたのではあるまいかと私は考えている。

とは言え、神功皇后の話が全くのフィクションで、「書紀」作者の脳内だけで創られたものとも思えない。実在の人の話を部分的に組み入れて、スーパー皇后像を創り上げたのだと思う。

その実在の人として、次の3人(3組)が考えられる。

■神功皇后のモデルかも?:その1
・邪馬臺国の女王、卑弥呼と壱与。
「書紀」は神功皇后紀に「魏志倭人伝」の話を記している。邪馬臺国とか卑弥呼とかの名前は伏せているが。

■神功皇后のモデルかも?:その2〜「新羅に兵を!」の人〜
・斉明天皇(皇極天皇と同じ人。天智、天武の母)
白村江の戦いのときの天皇である。朝鮮出兵のため筑紫に来て、宮を置いた。ただし、宮の場所はもっと内陸の朝倉(現・福岡県朝倉町)とされる。出兵前に亡くなったので、結果的に仲哀天皇と同じ役回りになってしまっている。

白村江の戦いは承知のように大敗。「むろんざんぱい(663年)」と年号を憶えた人も多いだろう。神功皇后は「見事に新羅を制圧」したことになっているが、新羅を制服する願望が現れたものか。あるいは、この部分は391年の「倭が百済・新羅を破った」(高句麗好太王碑文)ことを表したとも考えられる。

また、先日書いた御島神社のご利益に「雨乞い」があり、斉明(皇極)天皇が蘇我蝦夷と雨乞い合戦をしたことと重なっているのも面白い。

■神功皇后のモデルかも?:その3〜「我が子こそ皇位に!」の人〜
・持統天皇(天智の娘、天武の妻)
白村江の戦いの際、斉明、天智(中大兄皇子)、天武(大海人皇子)らとともに筑紫に来て皇子を生んだ。
持統天皇は、我が子を皇位に就けようとする執念の強さが神功皇后によく似ていると思う。

神功皇后の夫・仲哀天皇には先妻があり、息子もいた。年功序列でいけばそちらが皇位を継承するのが普通だが、神功皇后は先妻の子を倒して、幼い我が子・応神を皇太子としたのである(かなり強引)。
持統天皇も、夫・天武の最初の妻の子・大津皇子を謀反の疑いで処刑した。しかし自分の息子の草壁皇子は若死にしてしまい、即位できなかった。そこで草壁の子(軽皇子)を皇位に就けるべく、自ら即位し、彼の成長を待った。天武の血を引く皇子は他に何人もおり、彼らは成人に達していたから、幼い軽皇子を皇位継承者にするのはこれまた強引と言わざるを得ない。

kasiimiya949香椎宮が仲哀・神功の廟として建立されたのは、元正天皇の時代、724年とされている。日本書紀が完成して4年ばかりしか経っていない。元正天皇(草壁皇子の娘)は、祖母・持統天皇、その祖母・斉明天皇の面影を十二分に感じたんじゃないだろうか。

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2006.01.21

香椎浜--御島神社

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中央に見えるのが御島神社。
後ろに人工島があって少々見づらい。
misima907
本来は沖にあった鳥居が、埋め立てのため陸地に囲まれている。
博多から北東へ約7km、博多湾が最も東に入り込んだところが香椎浜だ。
香椎川に架かる片男左(かたおさ)橋を渡ると、海の中に鳥居が見える。御島(みしま)神社と言い、神功皇后の伝説を持っている。

神功皇后は夫・仲哀天皇と共に熊襲征伐のため筑紫の香椎に到着、「熊襲よりも新羅へ行くべし」との神託を受けた。この浜で髪を海につけたところ、自然に二つに分かれたので、みずら(古代の男のヘアスタイル)を結った。頭だけが男の姿であることから、浜を片男左と名付けた。皇后はその姿で新羅出兵し、勝利した。ただ、仲哀天皇は神託を無視したため、祟られて香椎で急死してしまった。
凱旋した皇后は皇子を生む。皇子は後の応神天皇である。
(日本書紀:仲哀天皇紀、神功皇后紀より)

神功皇后は実在した人かどうかわからない。
しかし、このあたりは朝鮮半島、中国に通じる場所だから、古来(倭国の時代)から、人々は何かしら祀ってきたに違いない。
ダンナよりも奥さんのほうが主人公になっているのは、やはり邪馬臺国(
邪馬壱国?)女王の影響なんだろうか。

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2006.01.11

博多湾の夕暮れ

higasi959東市民センターから博多湾を臨む。

すぐ前を西鉄宮地岳線が通っているのだが、画面には写っていない。
海の向こうの陸地は人工島。何年も前から造成し、意味不明の樹木・庭石が高値で購入され、市の元幹部と元市議が疑惑を持たれているという、なんとも情けないシロモノである。これが無ければ湾はもっと広く、海の中道が見えるはずなのだけれど…。

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2006.01.09

「三丁目の夕日」の頃の福岡

映画「ALWAYS--三丁目の夕日」は良かった。
とにかくCGが凄い。
鉄橋を渡るSL。列車の窓に映る昭和30年代の東京の街。路面電車が走る大通り…。
よくぞ再現したものだと唸ってしまった。
あの鉄橋は遠賀川に架かる筑豊本線だそうだ。
北九州フィルム・コミッションのサイトでロケの写真が見える。
http://www.kitakyu-fc.com/pub/topics/sunset02.html

sinai35
昭和35年(1960) 天神

sinai48
昭和48年(1973) 荒戸

写真はいずれも「1996 福岡の都市計画」(福岡市・刊)より転載
昭和30年代には全国の都市で路面電車が走っていた。
もちろん博多・福岡にも。
東は貝塚から西は姪浜までを繋ぐ貫線と、博多部と福岡部をぐるりと囲む循環線・城南線(プラス支線)とで、市街地の移動には便利だった。

「三丁目の夕日」の頃は車がまだ少なかった。しかし、鈴木オートの社長さんの言うように、車の時代が始まっていた(写真上)。
昭和40年代に入ると、道路も拡張されたけれどそれ以上に車が増え、路面電車の肩身は狭くなるばかり(写真下)。

とうとう昭和50年11月に貫線・城南線・呉服町線を廃止。残る循環線・貝塚線も昭和54年2月10日をもって廃止し、福岡市の路面電車(市内電車)は完全に姿を消した。当日最終電車は予定より遅れて(たぶん別れを惜しむ人がわんさか乗ってきて時間が押してしまったのだろう)、翌11日の午前零時過ぎに貝塚駅に帰ってきたのだとか。

廃止後、すぐにバス路線用舗装が徹夜で行われたという。その夜電車路線上を歩いていたAさんは、「どんどん工事が進んじゃって、余韻を感じるいとまもなかった」と。

しかし、昭和50年代まで走っていたのは、よく持ったほうじゃないかと思う。
ちなみに私が初めて福岡に来たのは昭和54年8月。市内電車全廃の半年後だった。だから福岡の路面電車を見ずじまいである。
そのとき天神の書店で買ったガイドブックには循環線・貝塚線の路線図が書いてあって、「どこを電車が通ってるのよ」と不審に思う役に立たないガイドマップだったが、記念に今でも保管している。

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2006.01.05

江戸時代の博多を堪能する本

「古地図の中の福岡・博多」という本が出版されたと聞き、早速買ってきた。kochizu

江戸時代に書かれた地図を読み解き、当時の様子や現在の写真を併せて詳しく解説している。
その地図は、文化9年(1812年)福岡藩家老の三奈木(みなぎ)黒田家が書き写した「福岡城下町・博多・近隣古図」というものだが、サイズが縦横2m以上もあるのだ。地図上に通りの名、町名、民家の軒数、住んでいた武家の名前までもがびっしりと書き込まれている。場所にちなむ由緒や和歌も書き添えられていて、江戸時代の一大都市記録といったところ。

daimyo本書では古図とともに現在の地図を参照しているが、両者を見比べると「昔の町も案外しぶとい」と思う。

例えば、福岡城の北部、現在の中央区大名と天神の境目の天神西交差点(左図参照)。
江戸時代には武家屋敷が並び、大名--天神の間をまっすぐに見通せないよう、道路がくい違っていた(防衛のため、城下町はこういう道路が多い)。
明治43年(1910年)に路面電車が開通したが、角地を教会が取得していて、この道を直線に変更できなかったのである。電車は直角に曲がることはできないからS字のカーブで電車軌道を作った。
今は路面電車もなくなり、地下鉄が通っている。その軌道もやはり微妙にS字を描いている。電車通りの真下に地下鉄を通したからだ。

同じように、大名と天神の間の道は「くい違い状態」が多い。開発著しい福岡市街にもまだまだ江戸時代は残っている。

こんな江戸時代の名残を発見、確認できるのは楽しい。そして、同じ楽しみを持つ人がほかにもいることが嬉しい。

「古地図の中の福岡・博多」
海鳥社:刊
http://www.kaichosha-f.co.jp/
宮崎克則・福岡アーカイブ研究会:編

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2006.01.01

初日の出

hinode362006年の初日の出。

ただしこれは博多でなくて別府湾。
博多湾から日は出ない。

天気予報で九州北部は雨か曇と言っていたが、予報は外れて良い天気になった。

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