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2006.01.24

香椎宮と神功皇后--女王伝説のリフレイン

kasiimiya947
香椎宮
現在、歴史の「定説」は、歴代天皇のうち応神天皇以降が実在の人、それ以前は実在性が疑わしい、とされている。したがって神功皇后と応神天皇の間で伝説と史実の線引きがあることになる。

もちろん応神天皇に母はいたわけだが、神功皇后の話に摩訶不思議な事跡が多いために、「いくらなんでもこんなスーパー皇后はおらんだろ」と戦後は考えられてきた。
おそらくは応神天皇はその前の王族を倒して新王朝を創設した人で、血統がつながっていない。そこで日本書紀制作者は応神の母に神がかりの活躍をさせ、応神の正当性を創り、「万世一系」を保たせたのではあるまいかと私は考えている。

とは言え、神功皇后の話が全くのフィクションで、「書紀」作者の脳内だけで創られたものとも思えない。実在の人の話を部分的に組み入れて、スーパー皇后像を創り上げたのだと思う。

その実在の人として、次の3人(3組)が考えられる。

■神功皇后のモデルかも?:その1
・邪馬臺国の女王、卑弥呼と壱与。
「書紀」は神功皇后紀に「魏志倭人伝」の話を記している。邪馬臺国とか卑弥呼とかの名前は伏せているが。

■神功皇后のモデルかも?:その2〜「新羅に兵を!」の人〜
・斉明天皇(皇極天皇と同じ人。天智、天武の母)
白村江の戦いのときの天皇である。朝鮮出兵のため筑紫に来て、宮を置いた。ただし、宮の場所はもっと内陸の朝倉(現・福岡県朝倉町)とされる。出兵前に亡くなったので、結果的に仲哀天皇と同じ役回りになってしまっている。

白村江の戦いは承知のように大敗。「むろんざんぱい(663年)」と年号を憶えた人も多いだろう。神功皇后は「見事に新羅を制圧」したことになっているが、新羅を制服する願望が現れたものか。あるいは、この部分は391年の「倭が百済・新羅を破った」(高句麗好太王碑文)ことを表したとも考えられる。

また、先日書いた御島神社のご利益に「雨乞い」があり、斉明(皇極)天皇が蘇我蝦夷と雨乞い合戦をしたことと重なっているのも面白い。

■神功皇后のモデルかも?:その3〜「我が子こそ皇位に!」の人〜
・持統天皇(天智の娘、天武の妻)
白村江の戦いの際、斉明、天智(中大兄皇子)、天武(大海人皇子)らとともに筑紫に来て皇子を生んだ。
持統天皇は、我が子を皇位に就けようとする執念の強さが神功皇后によく似ていると思う。

神功皇后の夫・仲哀天皇には先妻があり、息子もいた。年功序列でいけばそちらが皇位を継承するのが普通だが、神功皇后は先妻の子を倒して、幼い我が子・応神を皇太子としたのである(かなり強引)。
持統天皇も、夫・天武の最初の妻の子・大津皇子を謀反の疑いで処刑した。しかし自分の息子の草壁皇子は若死にしてしまい、即位できなかった。そこで草壁の子(軽皇子)を皇位に就けるべく、自ら即位し、彼の成長を待った。天武の血を引く皇子は他に何人もおり、彼らは成人に達していたから、幼い軽皇子を皇位継承者にするのはこれまた強引と言わざるを得ない。

kasiimiya949香椎宮が仲哀・神功の廟として建立されたのは、元正天皇の時代、724年とされている。日本書紀が完成して4年ばかりしか経っていない。元正天皇(草壁皇子の娘)は、祖母・持統天皇、その祖母・斉明天皇の面影を十二分に感じたんじゃないだろうか。

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