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2006年11月

2006.11.26

なぜ「四季のある日本は美しい」のだろう

あちこちのブログで挙がっているが…
愛国心を教える授業の実践に「日本は四季があるから美しい」というのがあった。
(NHKクローズアップ現代「『愛国心』ってなんですか」11月14日放送)

授業概要:常夏の島の少女・スージーさんに「日本は四季があって美しい」と
言われた日本の少年・アキラくんが「日本の良さ」に気づくというお話。

この授業へのツッコミは各ブログを見ていただくとして(かめ?--gegengaさん とか Imaginary Lines--debyu-boさん とか)
私は「なぜ四季のある日本は美しいのか」「それがなぜ愛国心になるのか」を独自に考えた。

キーワードは「お米」にあり、と見た。

四季(つうか、四季+梅雨)がある日本は、米作りに適している。
米作りによって、日本列島は人口激増。
幾多の部族が争い、勝ち組になったのがヤマト王朝である。彼らのシンボルは稲作で、この地を豊葦原瑞穂国と呼んだ。

千数百年を経た今も、かの王家の血統は続き(ということになっており)、祭祀として米作りをしておられる。

米作りは日本の国の根源。その米を育むことができたのも、四季(+梅雨)あってこそ。だからこの国の四季を美しい素晴らしいと思うことが、この国を愛することになるのだ。
授業で教師が言っていた、花の種類がどうの富士山の景色がとか、そんなのは枝葉の話に過ぎない。要は米なのよ、米!

米作りに結びつかなかった四季(ヨーロッパや北米南米大陸、オーストラリア等)とは違う。
また、単に米作ってる、食べてるというんでなく、「米作り王家」の伝統が連綿とあるのも日本だけ。

日本が常夏だったり、もっとずっと涼しかったりしたら、今のようなありがたい国にはなっておりませなんだ。
「四季があるから日本は美しい」とは、こういうこと、なんで、あります。

Ine51
この稲穂が日本の美
Itazuke318_1
日本列島米作りさきがけの地(板付遺跡復元水田)
B.C.8〜9世紀から始まったとの説あり

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2006.11.20

福岡市内電車の跡

福岡市内電車(路面電車)の名残のある風景。
電停をバス停として引き続き利用している。敷石の素朴なホームは当時のまま。

Dentei64_1場所は馬出(まいだし)2丁目と5丁目の間。右のほうから九大病院前を通った電車が来て、ここの前で大きくカーブ、左へ行って九大工学部に至った。

電停時代の名前は「馬出」、市内電車廃止後はバス路線となり、「馬出通」停留所と名を変えた。

市内電車は1970年代に廃止、路線の下に地下鉄がつくられた。地下鉄空港線(1号線)、箱崎線(2号線)はだいたい市内電車ルートに重なっているが、このカーブ地点から東、九大工学部方面のルートは市内電車とずれている。さすがに90度近い急カーブでは地下鉄は通れない。
(写真の奥、白い車が走っている方向が地下鉄路線)

こんなに曲げて路面電車を通したのは、当時はこれでも広いほうの道だったからだろう。1940年代、50年代の地図を見ると向こうの道路は無く、狭い道が縦横にあるばかりだ。

Dentei67市内電車が廃止され、広い道路ができた後も、この道にはバス路線が維持されている。福岡の市内電車は市営でなく西鉄経営だったので、西鉄バスが律儀に路線継承しているらしい。

〈余談〉
今の市営地下鉄、特に七隈線が乗客数低迷にあえいでいるのは、西鉄バス路線との競合もあるのではないだろうか。西鉄は路面電車で市民の足を担っていたのだから(今もバスで担っているが)、地下鉄とパイの奪い合いすることないんじゃないの? 地下鉄転換の際に、市と西鉄でどんな話があったのか知らないが…。

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バブリーな夢--地下鉄七隈線

地下鉄七隈線のプランは現市長(山崎広太郎氏)より前の代に作られた。いつ策定されたのか知らないが、手元にある「福岡の都市計画 1996」を見ると、この頃には着々と進められていたようだ。

当時の計画を地図に書き足すとこうなる(緑色点線部分が「計画予定」)。
Tikatetu2

博多駅と空港線、箱崎線にちゃんと繋がってるのね。
しかも2方向分岐で、結構贅沢なつくり。

こんな説明文がついていた。

現在西南部の慢性的な交通渋滞の改善を図り、均衡あるまちづくりを推進するため、地下鉄3号線(計画延長約16.7km)の計画を進めており、このうち、橋本〜天神(12.7km)については平成18年度の開業を目指し整備を進めている。

ここで疑問。

なぜ、客の多い都心部でなく、少ない郊外から開業するのだろう?

もうひとつ。

橋本のあたり、地下鉄でないといけないの?

七隈線開業を報じた西日本新聞の記事は、沿線の様子を次のように書いている。一部抜粋すると。

・橋本駅「古代史巡りの玄関口」…西の発着駅の周囲には田んぼや畑が多く、のどかな景色が広がっている。
・野芥駅「縁切地蔵に何願う?」…野芥駅を出て南を見ると、間近に迫る油山。
・梅林駅「田園歩きおしゃれに」…梅林駅の北側は自然林が広がり、(中略)「西南杜の湖畔公園」の建設工事が始まった。

(西日本新聞 「七隈線開業 ちょっと散策」)

いや〜、七隈線の先のほうって、自然豊かでいいトコですね〜
…って、そういう話でなくて、
田畑や林がある自然豊かな地域で「地下鉄」って、おかしくないかと。

地下鉄はビルがぎっしりの都会でつくるべきもので、郊外では採算とれないのでは。

1996年の都市計画の説明「西南部の交通渋滞の改善、均衡あるまちづくり推進」
→そのために地下鉄、という発想がヘンだったんでないのと(今さら)思う。
地下鉄の必然性がどれだけあったのかと。
天神すぎたら地上に出して電車通すのではアカンのか。

計画を構想した当時の市長はすでにこの世の人でないけれど、今の市の幹部の方たち、いまだ「金さえあるなら地下鉄網の整備を」と考えているのだろうか。

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2006.11.19

前から思ってたんだけど

吉田宏さんて、ぐっさん(山口智光)に似てない?

ちょいとコワモテな感じが…。

吉田ひろしオフィシャルサイト(混雑しているのか、つながらないm(_ _)m)

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福岡市長選--吉田宏氏が当確

福岡市長選挙の開票速報を見ていたら…
吉田宏氏(無所属、民主推薦、社民支持)が当選確実だそうだ。

速いですなー。競り合っている(山崎氏、吉田氏)というから、もっと遅くにならないとわからないかと思っていたのに。

だからオリンピックなんて気まぐれ起こすから…。>山崎氏
あれで福岡市の借金ヒド…がバレた。あれがなきゃ知らなかった人にまで。
オリンピック招致間接効果か?

投票率も高かったらしい(市長選にしては)。私の周辺、盛り上がってなかったけどね(^^;)

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含蓄のあるイイワケ--地下鉄七隈線

地下鉄七隈線の面白いところは、乗客数低迷についてのイイワケである。

開業(2005年2月)して1カ月ほど経った頃、乗客数が予想の4割しかなかったことを受け、交通局の担当者はこう言った。

「学校が休みなので、利用が少なかった」

…。。。(_ _)。。。…
学校が2,3月に休みに入るのは始めからわかってることなんだけど。
予想って、そういうの織り込み済みではないの?

開業1年後にはこう言ったらしい。

「空港線は以前路面電車が走っていた経路に作ったため、ご利用のお客様にも馴染みやすかったのではないか。しかし、七隈線は、これまでバス路線のみであったところに鉄道が走ることになるので、想像しにくかった。」(交通局・乗客誘致担当:関岡主査)
天神経済新聞「特集/コラム」「■伸び悩む七隈線、利用客アップのための戦略は?」より引用)

これもすごい。
まるで七隈線沿線住民は「鉄道(地下鉄)というものを想像しにくく、乗るのをためらった」みたいな。江戸時代人か、っての。
地下鉄開通を知らなかったわけでもあるまい。バスや車で通っていれば、道路を掘り返しているのがいやでも目に入る。TVニュースなんかでも大々的に報じていたし。

かつて路面電車があろうがなかろうが、便利なら乗るでしょ。乗らないのは不便だから。

…なんてことは担当職員は百も承知のはず。でもそう言ってしまうと「そもそも路線設計がアホなので」と当局自ら認めることになるので、学校がとか住民がとか、他人のせいにしているのだろう。

(思い出した。山崎市長が「市民はまだ理解してないからオリンピック招致に賛成が少ない」とか言っていたの。これと同じ。賛同や利用が少ない場合は「市民の理解不足」にしとけ、ってのは市の弁解のデフォルトなのか)

しかし、いくら型どおりの弁解にしても、「住民に馴染みがない、想像しにくい」をそのまま受け取れば、「地下鉄は住民の要望ではありませんでした」ということでしょ? 住民の強い要望でつくったものを、住民が「想像しにくい」わけないのだから。

住民の要望でもないものを巨額の税金でつくりました、って、担当職員が(暗にだけど)言っていいのかい?
職員の飲酒運転も問題だろうけど、こういうユルさもどうかと思うんだけど。

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2006.11.18

誰だこんな路線つくったの--地下鉄七隈線

福岡市長選挙でさしたる争点にもなっていない地下鉄七隈線。
まー他にもっとヘンなのがあるから仕方ないけど。

福岡市に住み始めてそうとうガッカリしたのが七隈線だった。
工事中から「おかしいなー」とは思った。既存の天神駅に繋ぐと思っていたから、それにしちゃソッポ向いた方向を掘り返しているし。

で、できた路線はこのように。↓
既存の路線(空港線)から孤立してるよ…orz
Tikatetu_1

天神まで行ってはいるけど、空港線の天神駅まで600mだか歩かねばならない。
博多駅まで直通でない。

その結果、通学・通勤の客を限定しちゃった。

実際、乗客数は予想の半分以下という低迷ぶり。

終点駅が「橋本」というのも不思議のひとつ。
このへん、住宅密集地じゃないのよ。
少し東寄りの「原」あたりのほうが、まだしも住宅地・団地がある。

なんでこんな路線をつくったんだろう。
素人考えでも「不便だよこれじゃ」と思うような路線を。

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2006.11.16

香椎参道

「Nanの木」があるのは香椎参道の途中。
Kasii853
楠の並木が続いて、散歩にうってつけの場所だ(なんの木? は「クスノキ」が正解だったのね)。
JR香椎駅(鹿児島本線)・香椎神宮駅(香椎線)、西鉄香椎駅(宮地岳線)から行ける。

この並木は、大正時代、皇后(貞明皇后)の香椎宮参拝記念に植樹されたという。
もとは「勅使道」と呼ばれていたそうだから、天皇の勅使が通る道だったのだろう。

ここからしばらく歩くと香椎宮、境内に大相撲・鳴戸部屋の稽古場がある。九州場所の最中で、稀勢の里、隆乃若、若の里のノボリがはためいている。
(隆乃若と若の里、十両に落ちているけれど、また幕内で活躍してほしい!)

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2006.11.15

香椎参道のコーヒー屋さん

Nan751_1東区、香椎参道にある珈琲豆屋「Nan(ナン)の木」。
お気に入りでちょくちょく行っている。

Nanという名前の木があるわけでなくて、店の前の大きな木を見た息子さんが「これはなんの木?」と尋ねたから…だそう。
入って左がコーヒー豆・紅茶・ドレッシング・コーヒー器具等々の販売コーナー。右が喫茶室。

Nan55_2ホットケーキセット ¥500
(コーヒー・コーヒーゼリー・ストロベリーヨーグルト付)
コーヒーおかわり有り。
今日のお昼ご飯はこれでOK…という日もあったり。

Nan60_1木の温もりのある、落ち着いた店内。
絵や写真、小物の作品が展示されるミニギャラリーにもなる。

お手洗いのスペースはゆったり、ドアは引き戸でバリアフリーにも配慮が行き届いている。

店内に置いている芸術新潮を眺めると、視覚的にもくつろげて、私のリフレッシュ時間です。

コーヒー豆はWebでも購買可(「珈琲豆屋」Nanの木情報

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2006.11.14

九州国立博物館の小さな楽しみ(続)

九州国立博物館の水城(みずき)ジオラマ、こちらのほうがよくわかる。

Mizuki70_1左側4分の1が現代、右側が古代(7世紀)の様子。
向こうの盛土の内部に水が溜められた(だから「水」城という)。
水を導いた木製の樋も発掘されている。

水城造営は非常に大規模な事業で、今でも跡がくっきり残っている。盛土に木が生い茂った「緑のカマボコ」が1.2kmにわたって続いており、久留米あたりの山からも見えるくらいだ。
大野城市サイトの水城跡の写真)

水城ジオラマのそばに博多湾〜太宰府の航空写真があるので、サイズを確認できる。人力しかなかった時代の大・土木工事には感心するばかり。

同じフロアに、大宰府政庁・南門の復元模型もある。

Kyuhaku71_2 政庁の模型はもともと九州歴史資料館(国立博物館の近く)にあったのだけれど、国立博物館オープンに伴って、南門と全体模型をこちらに移動したのだそうだ。中門は歴史資料館にまだある。

前に置かれた人形は、地元の人形作りサークルの人たちの作品。いろんな階層の人物が細かく作られている。特にお坊さんが可愛い。

Kyuhaku72
屋根の上には猫もいます(^^)

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天神--VIORO最上階のテラス

天神、VIORO(ヴィオロ)7F。
レストラン「バール・デル・マエストロ」のテラス。
Vioro82

テーブルの色が刻々と変わる。
夕暮れ以降に行きたいところ。さすがに今は寒いけれど。

Vioro84

VIOROはこの9月にオープンしたショッピングモール。
お洒落な店が揃っている。

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2006.11.13

今は「犯罪多発」時代か?(続)

現代は昔よりも「殺人被害にあう子ども」が激減した、と11月9日のエントリーに書いた。

子どもの被害だけでなく、加害も大きく減っている。

少年犯罪のデータはこちらのサイト(「反社会学講座 キレやすいのは誰だ」)がわかりやすい。
※はじめのグラフだけ見て終わらないでくださいね。ぐーっとスクロールさせて、下のほうのグラフもちゃんと見ていただきたく。

近年は少年による殺人は年間100件前後。平均して1週間に2件の割合になる。
ところが、昭和25〜35年あたりは300件以上(400件超の年もある)。1週間に7〜8件起きていたわけだ。
路面電車が走る、のどかな「三丁目の夕日」の時代にはそういう面もあった。

「そんなはずはない! その頃、少年犯罪のニュースは連日報道されたりしてなかったぞ」と思う方がいるかもしれない。

それはたぶん

・TVのワイドショーやニュースでしつこく取り上げなかった
・ワイドショーがなかった
・TV放送がなかったか、放送時間が少なかった
・新聞の取り扱いが小さかった
・幼かったので新聞を読まなかった
・幼くなかったが新聞を読まなかった
・読んだけど忘れた
・生まれてなかった

の、どれかではないかと(重複あり)。

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2006.11.10

ブログの文字色変えてみた

ブログのCSS(スタイルシート)をいじって、文字色を変えてみた。
リンクのオンマウス背景色とかも。
文字色がぼんやりしていて見づらいではないかなー、と少々気になっていたので。
他のテンプレートデザインは好みのが無かったし、シンプルなデザインはそのままにしておいた。

ココログ(ベーシック)でCSSを変更できる、と初めて知ったのだけど、背景画像使ったりはできないのかな?
装飾のために画像バリバリ使う必要はさらさらないんだけどね。

※マイフォトは個別の変更はできないみたい。なので、別テンプレートに変えた。このデザインが気に入っているのではないが、他はイマイチなので致し方なし。
ついでに「三角西港」の写真を追加(九州たび旅(天草))。

ブログは基本的にCSSでレイアウトされており、テーブルはカレンダーくらい(ココログの場合。他社のもたぶん同じ)。
従来のホームページの、テーブルを幾重にも組んだレイアウト手法は徐々になくなっていくのじゃないかな。

というわけで、私も過去に作ったサイトの作り変えを始めている。でも全部変えるのは大変(^^;)
それに、テーブル組みは、OS・ブラウザの違いで崩れる度合いが少なくて、とにもかくにもレイアウトは保たれて見えるが、CSSレイアウトは合わないブラウザで見ると崩れ方がすごい。2段組のはずが1段になってるとか。
複数のブラウザでマトモに見えるように組むには、試行錯誤と細かい注意が必要のようだ。

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2006.11.09

福岡市長選挙--今は「犯罪多発」時代か?

福岡市長選挙に立候補している山口敬之氏(無所属・元福岡市交通局車両部長 58歳)の選挙公報(以下、一部引用)。

 今日、我々は「親殺し」「子殺し」「いじめによる自殺」などという異常な事件が恒常的に発生するという国家の危機とも言える事態に直面しています。
(山口敬之 教育再生--まっとうな人づくりでまっとうな福岡市を!)

確かに凶悪犯罪等のニュースがメディアで騒がれているが、では、現代はそんなに犯罪が多くなっているのか。少年犯罪や子殺しが増えているのか。
次のデータを見ていただきたい。

Kodomosatujin
(「子どもの犯罪被害データベース」より)

幼児(小学校就学前)が殺人被害にあった数は、なんと1970年代のほうが今より4〜5倍多かったのである。これで言えば、山口氏の若かった時代は、今よりずっと「国家の危機的状況」だったことになる。

上記サイトの「子どもの自殺」、統計データ「強姦被害統計グラフ」「赤ちゃん殺し統計グラフ」も見てほしい。
統計は、いずれも「過去の時代には被害が現代の何倍も多い」ことを示している。

もちろん、「今は昔より数が減ったから、問題ないじゃないか」と言いたいのではない。現代の課題として取り組むべきことはある。
しかし、基本的な事実の把握をせず、過去を忘却し美化し、「今の子どもや若者は凶悪化した」とか「心が荒廃した」等と煽るのはおかしなことだ。

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福岡市長選挙--人工島は?

福岡市長選挙、候補者の政策。
「人工島(アイランドシティ)をどうするか」を拾ってみた(要約:筆者)。

■高山 博光氏

こども病院や市民病院、 青果市場を移転する計画は白紙に戻す。
物流基地とし、関連事業に伴う雇用 促進の起爆剤としての活用を図る。
(高山博光 まちづくり全書より)

■吉田 宏氏

現在の利用区分を白紙に戻し、基本コンセプトを作り直す。目標期限は2年。
売却先・利用案を広く募る。売却等には市が全面的に支援。
(吉田ひろし 政策2より)

■上田 光彦氏

人工島をどうするかの具体策は無し

■清水とし子氏

人工島をどうするかの具体策は無し

■山崎広太郎氏

ネットに見あたらず

■山口 敬之氏

アイランドシティに6万トン級の大型船が接岸できる大型岸壁を完成させ、国際港湾整備を進める。
山口敬之サイト ローカルマニフェストPDF版より)

*  *  *
Misima899〈私のMEMO〉
上田・清水の両氏は人工島推進策を批判しているが、すでにできちゃってるのをどうするかの具体案は無かった(どこか余所で書いているかもしれないが、政策としてわかるようには書いてない)。

山崎氏は現職なので、「照葉(てりは)の街」(注)づくりを進めるのだろう。来年小学校を開校する予定だとか。

注)照葉の街…人工島ニュータウン計画。宮崎駿氏にイメージプランを作ってもらおうとしたが断られた。

博多の町(博多部)は人口減で小学校を統廃合したくらいなのに、人工島に無理くり人を住まわせ、新しい学校だと。なんと無駄なことか。
人工島の宅地販売チラシに「博多駅にも天神にも空港にも近くて便利!」とか書いてあったけど、博多のほうがよほど便利だっつーの。博多の町を家族持ちが住みやすくするほうが良いと思うよ。

しかし、地下鉄七隈線と同じで、赤字だからって今さら元に戻すというわけにもいかない。この2大不良債権には頭が痛い。

いっそのこと、ニュータウンでなくオールドタウン、江戸時代の町並み復元して、時代劇撮影に使ってもらったら?(←もちろん冗談です。大赤字まちがいなし)

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2006.11.06

福岡市長選挙--地下鉄どーするの?

福岡市長選挙が告示された。近年最多の6人が立候補。

私は財政ももちろんすごく気になるのだが、「地下鉄」も気になってしょうがないので(^^;)、地下鉄・公共交通網をどうしたいとお考えなのか、ネット上で各候補者の政策を見てみた。

「どーする、地下鉄」

■高山 博光氏(無所属)

●地下鉄七隈線の延伸はできるか
現時点では福岡市は巨額の借入金を抱え込むことになり、 延伸は考えられません。まずは現行の路線の利用者拡大とコストダウンを進めます。

●七隈線と博多駅行きの乗り換えは
繰り返しますが、現時点では無理です。ただ七隈線と地下鉄 中洲駅との距離は800メートル余りなので、資金の余裕ができれば、ここで連結 する手は考えられます。十分研究に値します。
(高山博光 まちづくり全書より)

■吉田 宏氏(無所属)

地下鉄七隈線だけでなく、都心部の交通渋滞を含め、福岡市の都市交通体系を見直します。交通関係者や市民、識者らとの議論の場を設け、多様な意見を尊重しつつ結論を導きます。
(吉田ひろし 政策1より)

■上田 光彦氏(無所属)

最後の一つは地下鉄を含めた福岡市の交通網の再整備です。超高齢化社会に向けた対応を早めに実行すべきです。
(上田光彦 決意表明より)

■清水とし子氏(無所属)

新福岡空港、須崎ふ頭再開発、新都心構想などムダな開発はおこなわず、市民のくらしを守りながら財政を立て直します。4年間の市長退職金3888万円は返上します。
(清水とし子 清水とし子の公約より ※地下鉄についての具体的言及はなかったので、多少関連する項目を引用)

■山崎広太郎氏(無所属)
ネットに見あたらず

■山口 敬之氏(無所属)

七隈線の早期延伸(天神南〜博多駅)と博多・天神の面的整備
(山口敬之 山口敬之の主張より)

*  *  *
私のMEMO
個人的には、地下鉄七隈線の路線構造、なんとかしてほしい。
けれど、財政がねぇ…。
長期的な公共交通設計を考える機構が必要だと思う。そのあたりの具体策も示していただきたかった。

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2006.11.05

奈良屋小学校の児童数・附記

奈良屋小の年表(「ならや 創立80周年記念」)にはこんな記述もある。

昭和20年6月 空襲による校区全焼の際、本校大半焼失(旧鉄筋校舎9教室、木造二階建一棟6教室、…(中略))
学級数減少、職員6名、児童数当初40〜50名

福岡大空襲(昭和20年6月19日)で、奈良屋小周辺は大きな被害を受けた。
農山村に疎開した子どももいただろうが、空襲で亡くなった子もずいぶんいたのだろう。数年前は1,600人もいた児童数が、この時は40〜50人になってしまった。
鉄筋校舎(当時の小学校建築としては珍しい)まで焼けた。

現在の博多小学校には、空襲を受けた校舎の一部が保存されているという。
博多小学校のサイト「学校の施設」--「平和記念堂」)

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博多の子どもたち--奈良屋小の児童数

奈良屋小80周年記念誌(「ならや 創立80周年記念」奈良屋小PTA・編 1978年)を見て、目を引かれたこと。

大正2年 児童数1,000
大正10年 児童数1,400
昭和14年 児童数1,600

すごい人数(^^;)

奈良屋小学校だけで、1,000人超え。
冷泉小学校も昭和10年に児童数1,500人以上を数えている。
これに大浜小、御供所小を加えれば、昭和10年代には博多の小学生は少なくとも4,000人はいただろう。

現在の博多小の児童数が580人くらい(平成17年 575人)だから、いかに戦前に子どもが大勢いたかがわかるというものだ。博多の路地には子どもがあふれていたに違いない。

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奈良屋小学校・前史

1998年に博多小学校として統合された奈良屋小学校。

長い歴史を持つ学校だが、明治の学校制開始直後にできたのではなかった。
はじめは小さな学校がいくつかあり、統廃合を経て、奈良屋小となったようだ。

「ならや 創立80周年記念」(奈良屋小PTA・編 1978年 福岡市総合図書館蔵)で、奈良屋小の変遷を見てみる。
(下図。記念誌の年表を元に筆者作成)

Narayasc_3
明治6年(1873)、博多の浜部(海側地域)に3校ができた。
行町(ぎょうのまち)小…行町は旧町名。今の古門戸町。
袖港(そでのみなと)小…袖港は博多の港の古名。
●浜小…●は活字に無い字で、読み方もわからない。沖浜、または息浜だろうか。

この頃の小学校は大きな校舎も造れず、寺子屋の延長のような感じで小規模にやっていたのではないだろうか。今となっては痕跡もなく、どこにあったかわからない。

翌年、行町小と袖港小が統合して妙楽寺小ができる。妙楽寺は当時古門戸町にあった。現在は御供所町に移転している。
「簡易科」とあるのは、4年の修業年限を3年でも可としたもの。庶民の就学率が上がらないため、政府は規制緩和してなんとか学校に来させようとしたらしい。

●浜小は覇台北校を経て中市小路(なかいちしょうじ)小となる。ずっと市小路にあったのだろう。これは男子のみの学校だった。

妙楽寺小は奈良屋小となり、女子のみが通う。この時が奈良屋小創立。明治31年(1898)のことだ。

中市小路小は奈良屋小とほぼ同じ場所だった。校庭に柿の木が1本立っていて、それが両校の境界線だったとか。小学校を男女別学にする意味があったのか? と思うけれど。

その後中市小路小が廃止され、奈良屋小に男女とも通うことになる。また、海寄りに大浜小が設立され、通学区域が変更になる。
この頃には冷泉小(の前身)や御供所小もできており、平成時代まで「博多の4小学校」体制が続くことに。

*  *  *

奈良屋小と中市小路小は実質的に統合という形になるわけで、その際「奈良屋」の名前を続けた事情は何だったのだろう。町の力関係か、それとも単に「なかいちしょうじ」では長い!からなのか。

それはともかく、市小路は近世博多の基点になった町であるし、市小路の学校の場所がその後連綿と受け継がれているのだから、奈良屋小、博多小のルーツとして「(中)市小路」の名を記憶にとどめておきたいと思う。

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2006.11.03

西公園--さまざまな御霊(みたま)

光雲神社境内と付近には、黒田家と関係あり・なしにかかわらず、いろいろな御霊が祀られているようだ。

Nisi65
底引網漁船殉難者慰霊碑。
西公園東側は江戸時代から波戸(はと)があって福岡藩の港になっていた。
当時、博多湾にあった港は、ここと博多の須崎の二つだった模様。
今は埋め立てが進んで港は東に移り、博多漁港として漁船がたくさん泊まっている。
昔から漁業の拠点だった荒津の山に慰霊碑を建てたのだろう。建立は昭和30年代と思われる。

Nisi66
荒津神社隣りの小さな祠。
誰がいつつくったとも知れないが、なんとも可愛らしい。
お多福のお面がユーモラス(^^;)

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西公園--黒田武士

光雲神社境内の母里太兵衛(もり・たへえ)の像。
Nisi61
槍と大盃を持った武士…といえば、「酒は飲め飲め、飲むならば」の黒田節。
豪放な黒田武士のモデルになったのが、この母里太兵衛であるらしい。

母里太兵衛は黒田如水・長政に仕え、黒田八虎と言われた豪傑家臣。
酒豪の福島正則の前で盃いっぱいの酒を飲み干し、正則から名槍「日本号」をせしめたというエピソードが残されている。

黒田武士(黒田節)は福岡のシンボルのひとつで、博多駅前にも黒田武士像が建っている。ポーズは少し違っていて、右手に盃、左手に槍になっているが。

この槍「日本号」の実物が福岡市博物館の常設展・黒田記念堂に展示されているが、すごく大きくてタマげてしまった。これを実戦で使ったのかい?
すごい体力ですねえ、戦国武将は。

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2006.11.01

西公園--黒田さんは松平さん?

西公園、光雲(てるも)神社社殿の横にある「荒津神社」の鳥居。
Nisi68

写真ではわかりづらいが、右の柱には
「〜〜姓賜松平氏黒田長●建宇」(●=「日」の下に「高」という字)、
左の柱には
「天明三年癸卯夏六月十五日」
とある。(※天明三年=1783年)

黒田長「日+高」は、9代藩主・黒田斉隆の初めの名前。
松平姓を賜ったのを祝して建立しました、という感じなのだが、そうすると、当時ここらにあった東照宮に奉納したということだろうか。
あるいは、福岡城内の光雲神社内に建てて、明治になって本社引っ越しと同時にここにやってきたという線も考えられるが、「姓賜松平氏」云々を考えると前者かなと思う。

福岡藩主の黒田さんが松平の姓を賜るとは、現代の感覚では奇妙なことだけれども、歴史雑学本(題名を失念)によると、外様大名で「松平」の姓をもらった大名家がいくつかあるそうだ。
前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内。いずれも大大名である。
「松平筑前守(まつだいらちくぜんのかみ)」などと公称されたらしい。

黒田氏が斉隆の代で初めて松平姓を賜ったのかどうかはわからない。
斉隆は養子で黒田の後継ぎになった人で、実父は徳川一橋家の当主。血統は徳川ファミリーなので、その縁だったのかもしれない。

時代劇などでは「黒田藩」と言われたりするが、江戸時代には少なくとも公式でこういう言い方はしなかったようだ。「藩」も廃藩置県まで公的名称ではなかったとか。

明治以降、上記の外様大名家は旧姓に戻したため、黒田氏はずっと黒田だったような気がしているけど、そうではなかったみたいだ。
でも、TVドラマで「松平筑前守」「松平薩摩守」…じゃあわかりづらくてしょうがないよね。

 

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