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2006.11.05

奈良屋小学校・前史

1998年に博多小学校として統合された奈良屋小学校。

長い歴史を持つ学校だが、明治の学校制開始直後にできたのではなかった。
はじめは小さな学校がいくつかあり、統廃合を経て、奈良屋小となったようだ。

「ならや 創立80周年記念」(奈良屋小PTA・編 1978年 福岡市総合図書館蔵)で、奈良屋小の変遷を見てみる。
(下図。記念誌の年表を元に筆者作成)

Narayasc_3
明治6年(1873)、博多の浜部(海側地域)に3校ができた。
行町(ぎょうのまち)小…行町は旧町名。今の古門戸町。
袖港(そでのみなと)小…袖港は博多の港の古名。
●浜小…●は活字に無い字で、読み方もわからない。沖浜、または息浜だろうか。

この頃の小学校は大きな校舎も造れず、寺子屋の延長のような感じで小規模にやっていたのではないだろうか。今となっては痕跡もなく、どこにあったかわからない。

翌年、行町小と袖港小が統合して妙楽寺小ができる。妙楽寺は当時古門戸町にあった。現在は御供所町に移転している。
「簡易科」とあるのは、4年の修業年限を3年でも可としたもの。庶民の就学率が上がらないため、政府は規制緩和してなんとか学校に来させようとしたらしい。

●浜小は覇台北校を経て中市小路(なかいちしょうじ)小となる。ずっと市小路にあったのだろう。これは男子のみの学校だった。

妙楽寺小は奈良屋小となり、女子のみが通う。この時が奈良屋小創立。明治31年(1898)のことだ。

中市小路小は奈良屋小とほぼ同じ場所だった。校庭に柿の木が1本立っていて、それが両校の境界線だったとか。小学校を男女別学にする意味があったのか? と思うけれど。

その後中市小路小が廃止され、奈良屋小に男女とも通うことになる。また、海寄りに大浜小が設立され、通学区域が変更になる。
この頃には冷泉小(の前身)や御供所小もできており、平成時代まで「博多の4小学校」体制が続くことに。

*  *  *

奈良屋小と中市小路小は実質的に統合という形になるわけで、その際「奈良屋」の名前を続けた事情は何だったのだろう。町の力関係か、それとも単に「なかいちしょうじ」では長い!からなのか。

それはともかく、市小路は近世博多の基点になった町であるし、市小路の学校の場所がその後連綿と受け継がれているのだから、奈良屋小、博多小のルーツとして「(中)市小路」の名を記憶にとどめておきたいと思う。

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コメント

●浜小学校
おきのはま
青柳種信「おきの島防人日記」のこの字が使われています

投稿: | 2014.02.17 01時18分

●浜小学校
おきのはま
青柳種信「おきの島防人日記」のこの字が使われています

投稿: | 2014.02.17 01時19分

情報ありがとうございます。

「沖」の古字体なんでしょうかね。

青柳種信を調べましたら、江戸時代後期の国学者、福岡藩士とありました。本居宣長に師事し、伊能忠敬の測量に同行、金印についての書もあるそうです。

投稿: kiriko | 2014.03.02 12時34分

古い記事なので もう解決されてるかもしれませんが、

瀛浜(うみはま)小学校 です。

[水亡口月女凡]でうみ・エイ。
読み通り海の意です。

投稿: 通りすがり | 2014.05.28 20時25分

通りすがり さん

コメントありがとうございます。
瀛という字、PCにもありますね!
うーむ…
元史料(奈良屋小創立記念誌)では凡の部分が右に縦長にあったようですが、同じ字のバリエーションかもしれません。
明治時代には海の近くだったでしょうから「うみはま」の名も頷けますね。

福岡市史に載っているかもしれません。機会があれば調べてみたいです。

投稿: kiriko | 2014.06.06 16時52分

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