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2007.05.25

弥生時代はどのように生まれたのか

5月24日・朝日新聞朝刊(西部本社版)の記事。

「弥生文化の起源に新説」

によれば、

弥生時代早期の九州北部の土器には、東北の縄文土器を受け継ぐ特徴がある。

のだそうだ。
一方、同じ九州北部の縄文晩期の土器、朝鮮半島の土器に、その特徴は見あたらない。中国にも似たものがない。

このことから、九州北部の弥生文化は、朝鮮半島や中国からだけでなく、東北の縄文文化からも影響を受けて形成されたのではないかと。

この説を発表したのは、国立歴史民俗博物館の「年代研究プロジェクト」のメンバー、設楽博己教授(駒沢大)と小林青樹準教授(国学院栃木短大)。
同プロジェクトは、放射性炭素の年代調査で「弥生時代は紀元前10世紀頃から始まった」との説も出している。

弥生時代、ますます面白くなってきた。

三内丸山遺跡の発掘研究から、すでに縄文時代に広範囲な交易があったことが確認されている。糸魚川(新潟県)や讃岐の特産物が青森の三内丸山から出土したとか。
であれば、縄文時代晩期には東北から九州まで人や物の行き来があったとしてもおかしくない。

…にしても、その時代の人、よくそんな遠くまで行ったもんだなと。
そもそも「行こう」という気になったもんだと。

小林準教授は言う。

違う文化を持った大陸の人たちが九州に来たということが何らかの形で伝わり、東北から人々が出かけたのだろう。

って、ずいぶんあっさりとした解説(笑)。

近現代のように、通信・交通手段があったわけでなし。
人口密度は著しく低いし。
(縄文時代は日本列島全体で10万人くらいの人口レベルだったそうだ。東京ドームと甲子園球場が満杯になった合計人数が列島全体に散在していたことになる)

今とは時間・距離のスケール感がまったく違う時代。
九州の情報がどのように東北まで伝わったのだろうか。
最も近い集落(部族)だって相当に距離があったろうに。集落同士の関係も良好かどうかわからない。

なにぶん文字記録がないので出土品と遺跡から推定するしかないのだが、縄文・弥生時代の人たちの情報伝播、情報処理はどうなってたんだろうなと、そんなことが気になるのだ。

Itazuke323_2(写真は福岡市博多区の板付遺跡。弥生時代の竪穴住居の復元。ただし、この遺跡から住居跡は発掘されていない。弥生時代の他の遺跡を参考に復元したという。今年は板付遺跡に行っていないので、去年の撮影です)

*  *  *

国立歴史民俗博物館、7月から弥生時代の年代研究(「弥生はいつから!?−年代研究の最前線−」)展示・講演会をやるようだ。近くだったら行きたいのだけどねー。

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コメント

これは想像力をかき立てられる話ですね。
やっぱり船で行ったんですよね?
たまたま遠くまで行こうと思った人が九州にたどり着いて「こんなとこにも人が住んでるよ!」と思ったとか、漂流したとか(そんなことが可能な潮流かどうかわかりませんが)いうのが最初ではないんでしょうか。

投稿: narumi | 2007.05.26 01時00分

>narumiさん

最初は偶然だったんでしょうね。
九州と東北では遠すぎるから、北陸、山陰あたりを中継にして次第に範囲を広げたのかもしれません。
何世代にも渡る、気の長ーい話だったんじゃないかと。

投稿: kiriko | 2007.05.26 13時58分

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