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2007年7月

2007.07.24

古地図で町めぐり--天神北のあやしい道路

地図上に「あやしい道」(方向や曲がり方が他の道路と合っていない、不自然な道)があったら、そこはたいてい鉄道か川か海岸だったところだ、と私は睨んでいる。

Nagahama21_6 たとえば、こことか。

福岡市中央区、天神北から舞鶴1、2丁目の道。(地図の赤い色の道路)

他の道と方向がよじれている。

明らかにあやしいではないか(@_@)(@_@)


Nagahama19_3江戸時代(1812年頃)の地図を重ねてみる。

2つのお寺(安国寺、少林寺)と、タテ方向の道路が重なるように置くと、やはり赤い線の道は海岸線をほぼなぞっている。

安国寺、少林寺からはすぐ海岸。その西(左側)には「船町」「東職人町」「西職人町」などの町名が書かれている。福岡城下の職人・町人が海沿いに住んでいたのだ。

今の「長浜」は全域が海の中で、蕎麦屋さんの場所もだいぶ沖合になってしまう。

※江戸時代の地図は道幅・道路の間隔などがそう正確でないから、もう少しずれているかもしれない。
現代の地図:「ライトマップル福岡道路地図」昭文社(2004年・刊)
江戸時代の地図:「福岡城下町・博多・近隣古図」(1812年・写)
(「古地図の中の福岡・博多」海鳥社 より引用)

Nagahama238←今の風景はこうなっている。長浜公園の交番から西方向を見た写真。
中央奥に続く細めの道が200年前の海岸。

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博多小学校の脇--中世の名残

Hakatasyou349博多小学校の北側に、旧町名を刻んだ碑が建っている。
「奥小路(おくのしょうじ)」とある。

(博多の各所にこういう碑があるが、これは町界町名変更で消えてしまった町名を偲んで、やはり廃止された路面電車の敷石を使用して作ったものだ)

碑文;
旧奥小路
天正年間すでにこの町名あり 太閤博多町割以前の町

今の博多の基礎は豊臣秀吉の時代に作られた。それ以前の博多の町は戦乱で焼けてしまったのだが、いくつかの町名(通り名)が太閤町割で引き継がれたようだ。奥小路もその一つだろう。

「奥小路」の場所、現在では博多のほぼ真ん中に位置している。
しかし、戦国時代の博多を推定した地図を見ると、ここが海のすぐ近くになっている。
実際、博多小学校の敷地から石累が発掘されていて、元寇防塁じゃないかと言われているから、海岸だったのは間違いなかろう。中世には本当に「奥」の場所だったのだなー、と思う。

※中世の博多はヒョウタン型をしており、海に近いほうを「息浜(おきのはま)」と言った。この「おき」が「おく」に転訛したのかもしれないが。

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2007.07.23

山笠と博多小学校

Hakatasyou355博多小学校は毎年「子ども山笠」をやっていて、学校には山笠の人形が展示されている。
人形は子どもたちが作ったものだ。
顔や衣裳、よくできてます。

子ども山笠の始まりはいつなのか知らないが、敗戦の翌年(昭和21年)、焼け跡の博多の町に子ども山笠が繰り出した話が語り伝えられている。ありあわせの材木を使い、ベニヤ板に絵を描いた山笠を子どもたちが夢中でかつぎ回ったそうだ。そのあと、大人たちの本格的な山笠が復活した。

Hakatasyou356孫悟空は最近の作かな。全身のポーズに進化している。

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2007.07.18

山笠期間中の博多

山笠期間中、西門橋入口に注連縄が張られていた。
川の向こうが博多。川には幾つも橋が架かるが、注連縄があったのは西門橋と石堂橋だけだった(と思う)。
江戸時代からある橋はこの2つだけだし。
Narasi366

注連縄を見るとなんだか嬉しくなるというのか、えもいわれぬ気持ちになる。
私の原風景に刷り込まれているのかもしれない。

注連縄はいつごろから発生したんだろう。古代は紙が貴重だったから、縄に紙を結ぶのは割合最近からだと思うけれど。始めは縄(藁)だけで作ったのかな。

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2007.07.17

博多祇園山笠--信玄は舁き山に出ない(?)

山笠の標題は勇壮華麗な時代物だから、大河ドラマにかぶることもしばしば。
今年の大河、風林火山関係(川中島の合戦)は4箇所の飾り山に登場した。

しかし、舁き山の標題に武田信玄は取り上げられないんだそうである。
なぜかというと、江戸時代に信玄を標題にした山が事故で倒れ、民家が焼失したからだと。同じように高師直(歌舞伎の「忠臣蔵」登場人物)も事故があって以来使われない。
また、川中島の合戦、曾我兄弟は「大喧嘩の元」だから舁き山では避けている。
(「山笠」博多祇園山笠振興会・発行 より)

喧嘩が元で走り始めた舁き山だけれど、何度も同じ相手といくさをしたり、仇討ちしたりの話は遺恨が残ってよろしくない、といったところかな。博多っ子は熱くなりやすいが、いつまでもシツコイのは好かん、と(それはなんとなくわかる)。

Narasi368
千代流の飾り山。
飾り山は動かさないから(上川端を除いて)、高さもあり豪華。
幕末の絵にこれくらいの山笠がいくつも描かれているのがある。
当時はそれを舁いたというのだから、木造二階建てくらいしかなかった町に山が動くさまは壮観だっただろう。

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2007.07.15

博多祇園山笠--追い山終わって

降り止まない雨、こんなときに「傘がない〜」((c)井上陽水)。
川端商店街のアーケードを通って帰った。

上川端流の山を解体中。
Oiyama730

追い山が終わって労をねぎらう川端町の皆さん。
お疲れ様でした!
Oiyama731

提灯屋さんの前の提灯。
役割により提灯の形が違う。
Oiyama733

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博多祇園山笠--追い山(2)

「走る飾り山」の上川端流。これ、ぜひ見ようと思ってた。

Oiyama706今年の標題は「創国須佐之男命」。古事記神話、スサノオの大蛇退治から採ったもの。
祇園山笠の源流である祇園社は須佐之男を祭神にしているから、この標題は原点に立つものと言える。
※スサノオの妻になったクシナダ姫が櫛田神社の名の由来とも言われている。

上川端流の山はいつも仕掛けがあり、高い山がさらに上に伸び、大蛇が火を吹き煙を吐く。
他の山よりずっと大きく重く、雨のせいもあるのか時折休み、気合いを入れてまた舁き出す。そのたびに観客から大きな拍手が起こった。

Oiyama714東長寺前の清道を廻る。

今、「飾り山」を舁くのは上川端流だけ。
が、江戸時代から明治中頃まで、飾り山を舁くのが山笠だった。明治になり電線が山に引っかかるというので舁き山の高さを制限したのだ。

もともと山笠は走るのでなくゆっくり舁いていったもの。途中で休んで昼ご飯まで食べたとか。それが江戸期の半ばに、ちょっとした喧嘩が元で山同士が張り合い、競争しあう「事件」が起こり、それから走るようになったそうである。博多の人はケンカっ早いねえ(^^;)

Oiyama389

大博通り。
標題の「見送り」(反対側)は義経と弁慶。

飾り山の出番はここまで。
他の舁き山は須崎の廻り止めまで走っている。

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博多祇園山笠--追い山(1)

大型台風が日本列島を縦断する中、追い山は予定どおり決行された。

台風は福岡をやや逸れて通過。
追い山開始の15分くらい前は雨も少なく、天候回復すると思ったのだが--
始まる直前に降りが強くなってきた。

もう、見物人もずぶ濡れ(>_<)
お汐井とりの雨模様から、最後も雨の山笠になった。

旧・西町筋を走る土居流(一番山笠)
Oiyama382

Oiyama699

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博多祇園山笠--集団山見せ

13日・集団山見せ。

山笠が博多を出て福岡にお目見えする、昭和37年から始まった行事。
※商人の町・博多と城下町・福岡は別々の町である。←博多・福岡のFAQ

出発を待つ一番山の土居流。
Yamamise369
台上がりの右端は吉田宏・福岡市長。
吉田さんは舁き手として土居流に参加していたとか。

集団山見せは他の山笠行事とは異質で、観光サービスの側面が強い。
(山が博多から外に出ることについて、当初は抵抗もあったらしい)

台上がりする人は通常はその流に長年かかわってきた人だけれど、この時だけは市長や市議、企業・経済界の役員などが上がる。博多に縁のある有名人の時もあり、5年前は北大路欣也さんが台上がりしていた。北大路さんは大河ドラマ「時宗」で博多商人・謝国明を演じた。
※ただし、真ん中には流のベテランの人が座る。でないと、リードできないものね。

↓待機中、皆さんまだリラックスしてます。
Yamamise372

集団山見せの終点。中央区の市役所前。
Yamamise375

Yamamise378
このあと、別ルートで博多に引き返し、地元の流に帰る。

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2007.07.14

博多祇園山笠--追い山ならし(3)

追い山ならしの1コマ。

Narasi333_1

旧西町筋を行く東流。
こういう狭い通りも見どころのひとつだ。

Narasi336

千代流は町内で色違いののぼりが特徴。
他の流は板(招き板という)を持って走る。

Narasi342

水法被の後ろ姿がかっこいい。
背中の文字は流の名前または町名からとっている。
写真の西流は町名をつけていて、「綱場」→綱場町、「冷」→冷泉町。
書体や字の取り方が各自各様で面白い。

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博多祇園山笠--追い山ならし(2)

東流「祈愛染明王」(いのるあいぜんみょうおう)
Narasi333


中洲流「名槍黒田誉」(めいそうくろだのほまれ)
モデルはこの方
Narasi334_1


千代流「希代豪槍蜻蛉切」(きだいごうそうとんぼきり)
千代は「前方にぐっと突き出し」系のポーズが多い(^^;)
人形師さんの好みらしいが、ビジュアル的に華麗でファンが多いとか。
Narasi337


恵比須流「一剣倚天寒」(いっけんてんによってすさまじ)
Narasi339


西流「太閤再興之下知」(たいこうさいこうのげち)
Narasi343

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博多祇園山笠(訂正と追加)

前回エントリーで書いた標題について、訂正と追加。

土居流の「義仁勇在武士魂」の読み方は

ぎじんゆうありもののふのこころ

です。
題材は立花宗茂(豊臣秀吉の家臣、功により筑前の名島城主になり、後に柳川藩主となる…だったかな)。

大黒流の「独座鎮寰宇」は豊臣秀吉。

…以上は13日の「集団山見せ」でわかった。

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2007.07.13

博多祇園山笠--追い山ならし

追い山ならし;
15日の追い山のリハーサル。

東長寺前で。
今年の一番山は土居流。
Narasi325_1
標題は「義仁勇在武士魂」
「ぎじんゆうありぶしのたましい」と読むのかな(もののふのたましい、かも)。

続いて大黒流。
Narasi326_1「独座鎮寰宇」
こりゃ読めませんわ。
調べたら「 どくざしてかんうをしずむ」だそうだ。
こういう難しいのはなんか出典がありそうだけど、わからなかった。
誰を題材にしたかもわからなかった(…)

ところで大黒流のサイトは充実している。
特に 大黒流総合サイト
史料たっぷり、歴史もよくわかるし、各町の法被デザインまで、山笠が微に入り細に渡って紹介されているのだ。
「大黒流の地図」などは、明治・昭和初期・現在が表示できて、泣けてくるほどよくできてる。

また、大黒流ブログは、山ができるまでの工程や子ども山笠の写真満載(もちろん、走るところも)。

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2007.07.11

博多祇園山笠--お汐井とり(2)

箱崎浜に入る。
Yama308

浜で砂を取り、テボというかごに入れ、お持ち帰り。
Yama307

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博多祇園山笠--お汐井とり

9日の夕方、博多祇園山笠、全部の流(ながれ)のお汐井とりがあった。

Yama302_1各々の流から箱崎浜まで、オイサ、オイサと繰り出していく。
時折雨が強くなるが、山笠は雨にも風にも負けない!

←写真は中洲流。「警固若」と染め抜いたのぼりも見える。
警固というのは中央区の町で、博多じゃない。
博多外の町が加勢しているのだ。

ドーナツ化現象で著しく人口が減った博多部だけど、圧倒的な数の男衆が出てくるのは、こうした加勢で盛り立てるから。

※正確に言うと、中洲、千代は従来からの「博多」ではないが。
中洲って歓楽街だから住んでる人少ないし。

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2007.07.09

小倉・祇園社

Kokura227どういうわけか小倉に八坂神社がある。
八坂神社といえば京都、と思っていたけれど、調べたら全国に2000以上の八坂神社があるのだとか。

小倉の八坂神社の由縁は、「9世紀頃から祇園様(スサノオノミコト)が祀られていた」ということなんだが、これはあとでつけた社伝ではないかしら。

本社の京都八坂神社の経緯は次のようになっている。

八坂神社一帯に、渡来人の八坂造(やさかのみやつこ)一族が住む→観慶寺(別名:祇園寺)という寺があり、寺内に天神堂があった→観慶寺は衰退、天神堂が発展して祇園社と言われる→明治の神仏分離令により八坂神社と改める

明治以前は神仏習合のお寺・兼・神社だったわけ。
「祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり…」(平家物語)というくらいだから、仏教との縁はありますわな。

小倉八坂神社創建の確実な情報としては、小倉城主になった細川忠興が作らせたというあたりだろう。
本社同様、祇園社として信仰され、神仏分離令で八坂神社と改名し、祭神もスサノオさんになったようである。明治9年に今の小倉城内に移転。

写真、向こう側の赤い建物はリバーウォーク北九州。

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2007.07.06

小倉・長崎・広島

Kokura2201945年8月9日、原爆投下の目標地は小倉が第一候補だったことはよく知られている(と言っても、東日本で育った私は九州に来るまで知らなかったのだが)。
その日、小倉上空に雲が多かったため、長崎に変更したのだと。

しかし、「雲が多かった」とは、自然の天候だけではなかったらしい。
前日、隣りの八幡が空襲され、9日になっても煙が小倉上空に漂っていたからだ。

原爆投下の候補地には、人口規模、地形などの条件があった。最終的に選ばれたのが広島、小倉、長崎(京都や新潟も当初は入っていたが諸般の事情で除外)。
原爆の効果を的確に知るため、これらの都市には空襲しなかった。

が、小倉の隣りの八幡は空襲された(標的は無論、製鉄所)。で、この空襲部隊と原爆投下の部隊とは情報交換がなされていなかったとのことである。空襲部隊に詳細な情報が伝えられていたならば、前日の八幡爆撃は避けていただろうと。

(このへんの経過は「投下!〜小倉上空10時44分〜」を参照した。八幡が空襲されたいきさつもあり。)

写真は「リバーウォーク北九州」から見た小倉城周辺。八幡はこの右のほうで、八幡製鉄所(現:新日鉄)まで約7km。小倉城の向こう側に戦前「造兵廠本部」があり、現在中央図書館になっているその場所に「長崎の鐘」と碑が建てられている。

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2007.07.05

小倉城

Kokura221北九州市・小倉に行く。

小倉城、石垣は古いが城は戦後に再建されたものだ。
お城の姿は格好いいんだけど、創建時には無かった装飾が施されたのだとか(姫路城がモデル)。昭和30年代のことだから、忠実に再建しようとかいう意識がなかったのだろう。

城は江戸時代終わり頃に火災で焼け、すぐ再建されたものの(ただし天守閣は再建されず)、幕末の動乱でまた焼失したという。

小倉は譜代大名・小笠原氏の領地だったため、幕府方として長州勢と激しくやりあった。
第二次長州征伐(1866年)、幕府軍は四境戦争と言われる四面作戦で長州を攻めた。兵力(人数)は幕府軍が圧倒していた。
しかし、幕府軍の装備は甲冑に槍・火縄銃という旧式。片や長州軍は軽装に西洋式の最新銃、おまけに幕府軍は士気がまったく上がらなかったという。
その中で小倉藩は奮闘したが、他の九州諸藩の加勢もなく、あえなく敗北。このとき城に火が放たれ、第二次長州征伐は幕府軍の完敗に終わったのだった。

幕府の権威は地に落ち、こののち、戊辰戦争、明治維新へと時代は大きく動いていく。会津戦争や五稜郭のようなドラマにはならないのだけど、歴史の転換点を見た場所ではあるんだなあと思う。

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2007.07.03

NINAGAWA十二夜:博多座

Juniya279見ました!「NINAGAWA十二夜」
(先週のことですが(^^;))

やはり蜷川さん演出の舞台は華麗。
幕が開くと全面に鏡が…。この鏡、芝居のテーマにもかかわり、双子の兄妹や、妹が世を忍ぶ男姿で話が進むこと等を象徴するものでもある。

そして、最初のシーン。舞台いっぱいの桜、チェンバロの調べと少年の歌う聖歌。
(←このポスターに載っている場面なんだけど)
「安土桃山時代だ!」と思った。
近代以前で最も華やかで、国際色豊かな時代。
歌舞伎のルーツ・阿国歌舞伎が生まれた時代であり、シェークスピアが活躍した時期でもある。
芝居そのものは室町時代頃の設定だそうだけど、幕開きを安土桃山の雰囲気にしたのは、シェークスピアを歌舞伎で演じることを意識した演出じゃないかなと思う。

聖歌の歌詞は一体どこの言葉なんだろうかと思ったらラテン語だとか。なんとも幻想的で、これを見ただけでも儲けものという気分になった。

「冒頭をお見逃しなく」とチラシに注意書きがあったくらい。入場に遅れたら損ですよ>これから観る方

Juniya280コメディ作品なので面白い方々が出ているのだけど、特に面白かったのが亀治郎さん。お茶目な腰元・麻阿(まあ)を好演、いや、怪演していた。
亀治郎さんの手ぶり、足つきがとっても可愛らしく、これがあの武田信玄(大河ドラマ)と同じ人なんだから、文字通り「役者やのー」(古…)なのだ。

菊之助さんは斜め上から見た顔がお母さんの富司純子さんによく似ていると思った。姿も綺麗だけど、声も良い。菊五郎さんの声も良いし、寺島しのぶさんも…。このご一家は資質に恵まれているのねー。

菊之助さんの三役(兄と妹、妹の男装)早替わりが思った以上にたくさん観られたし、男性が「男装する女性」を演じるという妖しい世界(^^)を堪能できて、楽しい4時間でした。

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