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2007.11.18

金印シンポジウム--漢委奴国王の謎(その3)

久米雅雄氏の説「委奴=イト=伊都」。
これはとても面白い。
1世紀〜3世紀頃の倭国の状況のみならず、金印発見時(江戸時代)のドサクサまで示唆するものだからだ。

久米氏は、伊都国は外交・政治において周辺の国々より大きな力を持っていたのではないか、と考える。

※魏志倭人伝の記述
「…到伊都国…千余戸 世王有皆統属女王国 郡使往来常所駐」
「至奴国…有二万余戸…」

3世紀頃、伊都国には千余戸の住民がおり、奴国には二万余戸の住民がいた。人口からすると伊都国は奴国よりはるかに小さいのだが、久米氏は「奴国には『王』の記述がないが伊都国には『世王有』とある。奴国は経済の中心地、伊都国は政治と外交の中心地、邪馬台国は宗教祭事の中心地として機能していたのではないか」と言う。

そして久米氏は視点を江戸時代(金印発見時)に移して、伊都国と金印との意外な接点を提示するのである。

金印発見の時代に何が起きたのか

金印が発見されたのは天明4年(1784年)とされる。

同じ天明年間(1781〜1788)に、筑前怡土郡井原村(現在の前原市)の鑓溝(やりみぞ)という所で農民が甕棺の中から多数の銅鏡や剣を発見した。
鏡などの破片は、周りで見ていた農民たちが持ち去ったという。

この銅鏡は後漢の時代のもの、つまり「金印と同時代」だそうな。
久米氏の考えでは、鑓溝にあったのは伊都国の王の墓。墓の副葬品として鏡、剣、そして金印があり、江戸時代の人たちがそれを持ち去って、経緯は不明だが志賀島に渡ったのではないか、と。

はー。そんなところで伊都国とつながるとは…。

※前原市の井原鑓溝遺跡については三雲南小路・井原鑓溝遺跡のサイトが写真入りでわかりやすい。井原鑓溝遺跡の存在は江戸時代の記録によるもので長らく特定されなかったが、最近の発掘調査で中国製銅鏡・ガラス玉が発見された(2005年)。

上記の、久米氏「金印は伊都国王の墓に埋葬された」説には他のパネリストから疑問・反論が出た。
岡本氏「伊都国を政治・外交の中心地とするには人口が少なすぎないか。江戸時代に井原鑓溝から金印が出たのなら、なぜその記述が一言もないのか」等。

…にしても、志賀島の金印が、古代にでなく江戸時代にヨソから持ってこられたものではないかという話は新鮮で面白いと思った。

井原鑓溝遺跡は今も調査が続けられているそうだし、前原(伊都国)だけでなく各地の発掘調査が進んで新発見があるといいなあ。

(シンポジウムの内容は配布されたレジュメと私のメモに基づくものです。パネリスト各氏の発言は録音を書き起こしたものでなく、ご本人の確認を得たものではありませんのでご了承ください)

Sikanosima69シンポジウムの帰り道、海の中道から南西方面・博多湾を見た風景。

右側の堤防が志賀島。向こうの山影は糸島半島(古代の伊都国)。

志賀島と伊都国に天からの光降り注ぐ。

金印の光は何処にもたらされたものなのか?

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