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2008年3月

2008.03.31

さよなら島原鉄道南線(7)--雨の中を消えてゆく…

翌日(3月23日)は前日とうってかわって雨。
1週間後の30日も雨だったようだ。
春の気候はどうしてもそんな巡り合わせになる。

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島原駅。トロッコ列車が出たところ。
乗客は多かったけれど、さすがに吹きさらしのトロッコに乗る人は少なかった。

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南島原駅の車両基地。
中央に立つ人は撮影に来た人か。

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加津佐行きキハ2500形。
窓ガラスが曇って景色はあまり見えない。でも客はぎっしりでした。
加津佐行きはもうなくなってしまうけれど、このタイプの車両は北線で活躍する。

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さよなら島原鉄道南線(6)--島原駅

そういえばエントリのタイトルをずっと「さよなら島原鉄道」と書いてきてしまった(初回を除いて)。
これじゃ島原鉄道が全部廃線になるみたいだ。大変失礼しました。
廃止されるのは南線だけです。

さて、加津佐から乗ってきて、島原駅で降りた。
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駅名の字が随分と大きくない?
わかりやすくて良いと思うけど。
書体が丸ゴシック系なのもJRと違って独自仕様。
(JRは写研のゴナを使っていると思う。ゴナは印刷が写植だった時代にはよく使った書体)

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島原駅。島原城をイメージした駅舎。

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駅前にも子守の像が。少女だけど体格は良い。

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駅構内には昔の機関車の絵が飾ってあった。

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2008.03.29

さよなら島原鉄道(5)--車両いろいろ

加津佐から折り返して島原方面へ向かう。

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向こうから新し目の列車が来た。
3両編成で、真ん中(赤い部分)はトロッコ列車。

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南島原駅の車両基地。アイボリーと赤のツートンカラーは昔の「島鉄色」だそうだ。この車両も引退かなあ。

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島鉄本社前駅を通る。

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島原駅に到着。

黄色の車両が止まっている。
さっきのトロッコ列車を引いていた車両と同じ色だけど、新しいタイプ。
車体には子守の女の子が描いてある。
↓これ(^^) 電車にまたがっているのよ。
ねんねこに前掛け、頭に手拭いの、昔の子守さんスタイル。
(ねんねこと腰帯で赤ちゃんを支えるの、かなり疲れそうだけど)

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島原といえば「おどみゃ島原の…」

早よ寝ろ泣かんで おろろんばい♪
(島原地方の子守歌)

倍賞千恵子さんの歌唱が一番印象に残っているなあ。
作詞者の宮崎康平さんは島原鉄道の取締役を務めた人で、後年、邪馬台国研究に没頭したとか。

※私はこの子守歌一番の歌詞の最後「…久助どんの連れんこらるばい」を「久助どんの連れ子だよ」という意味だと思っていた。
本当は「久助どんが連れていく(くる)よ」のような意味なんですね。
九州では「○○の」を主格助詞「○○が」という意味で使う--古語の名残があるみたいだ。

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2008.03.28

さよなら島原鉄道(4)--加津佐駅のレール

島原鉄道の終点・加津佐駅では、折り返しの列車が出るまで車両と駅周辺を撮影した。

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駅から上り方面のレール。

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島原鉄道は今年で100周年を迎えるとか。
南線ははじめ「口之津鉄道」という私鉄で、のちに島原鉄道と合併した。
この切替機も年輪を感じますね。

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線路脇に咲く花。
こういうアングルが好きなので(^^;)
レールは廃線ですぐ撤去されるのかな?

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車両の顔の向こうに見える海。
この近くに海水浴場があった(「海水浴場」という名の駅も)。
夏、海水浴に行く人は…今ではほとんど車利用なんだろうね。

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2008.03.26

さよなら島原鉄道南線(3)--終点・加津佐

島原鉄道、終点の加津佐駅。
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小さな駅で、普段は乗降客も少ないが、この日は記念乗車・撮影の人々がいっぱいだった。

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2両編成でキハ2006+2003で走ってきたのだった。
行き先表示板「加津佐←→諫早」の文字が…
スプレーを抜き型で吹き付けるやつね。
こういうのは最近見ない気がする。

その下の島鉄重工のマーク、マの字が4個だから「シマ」。
ダジャレっぽいけど、昭和30〜40年代の自治体マークなんかによく使われていたなあ。

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2008.03.25

さよなら島原鉄道(2)--沿線風景

深江のあたりから雲仙普賢岳が見えてきた。
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山肌には火砕流のあとが残る。
噴火のときの凄まじい映像を思い出す。
(あらためて、亡くなられた方のご冥福をお祈りします)

土石流に流された傾斜地のあとにはビニールハウスがたくさん建って、ミニトマトや柑橘類の栽培がされているようだった。

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ローカル線には菜の花がよく似合う。

駅名表示板の「長崎県南高来郡南有馬町」は合併前の町名。
今は南高来郡8町が合併して南島原市になっている。
最近の(といっても2006年)合併のせいか、表示が修正されずに駅廃止になってしまった。
廃線になる区間はほとんどが南島原市だ。

「浦田観音」の次の駅「原城」は、島原の乱(1637〜1638年)で天草四郎時貞率いる一揆勢が立てこもった城。
原城の跡がどこかに見えるかな…と一生懸命見たのだけど、さっぱりわからない。
それもそのはずで、原城跡は線路より海側にあるというのに、山のほうばかり見ていたのだ。
原城は現役のときは「海のすぐ前」であったらしい(城は、戦国時代には戦いに有利なように地形の厳しい場所につくられ、江戸時代に入ると領地支配しやすい広い場所に築城される、ということがあるようだ。筑前領主の名島城→福岡城みたいに)。

海側の風景。
水平線の向こうに熊本県宇土や天草が霞んで見える。
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島原鉄道は、片側に山の景色、もう一方に海の景色を見ることができて、観光列車として良い素材を持っていると思う。
しかし、沿線に中規模以上の都市や有名観光地がない から、鉄道運行は赤字を累積するばかり。残念だけど廃止もやむをえないのだろう。

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2008.03.24

さよなら島原鉄道南線(1)

島原鉄道は、諫早を出発し島原半島を海岸沿いに走る私鉄線である。
そのうち、南半分の「南線」(島原外港--加津佐〈かづさ〉)が2008年3月いっぱいで廃止となる。
廃止の1週間前、その南線に乗りに行った。私にとっては最初で最後の南線。

海の道が安い&速い

福岡から島原へはJR長崎本線経由を予定していたのだが、調べてみると海を渡る路線のほうが低料金で所要時間も短いことがわかった。

・博多--(JR長崎本線・特急「かもめ」)--諫早--(島原鉄道)--島原
 → 5,180円 約3時間
・西鉄天神福岡--(西鉄特急)--大牟田--(バス)--三池港--(島鉄高速船)--島原港
 → 3,100円 約2時間15分

おまけに、西鉄+高速船のコースには「湧くわく島原観光きっぷ」というのがあって、島原鉄道の列車とバスのフリー乗車券、島原観光地と宿泊割引が付いて、往復6,260円。島原鉄道に乗って自由に動くならこれがいちばんお得かなと。
(詳しくは島原鉄道グループホームページへ)

…というわけで、西鉄で大牟田に向かい、三池港から高速船に乗る。
思ったより小さな船で「あら?」と思ったけど(笑)

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島原港に入るところ。
島原温泉のホテルが見える。

古いキハの列車が来た

港から最も近い「島原外港」駅まで歩く。
そう待たずに下り列車=加津佐行きが来た。
島原外港から加津佐までの区間が廃止されるわけで、運行は現在1時間に1本以下。
割にすぐ来たのは運が良いのかな。

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ホームに入って来たのはキハ2006、「三本ヒゲ」という愛称があるらしい(先頭に赤い三本の線があってヒゲに見える)。

南線廃止と共に、古いキハ20形の車両も廃止になるのだとか。
この車両は昭和33年製造と書いてあった。50年走り続けたのか。
人間ならまだまだだけど、車両としては寿命かな?

車内は普段の利用者らしい人に加え、カメラを携えた人でいっぱい。
あと1週間で姿を消すとあって、鉄道ファン、キハ形車両ファン(?)が詰めかけた模様。
普段からこれくらい乗車率があれば廃止にならずにすむだろうけど、かく言う私だって「廃止」と聞いて乗りにきたクチなんだし、「前からもっと乗ってあげてよ」なんて言えた義理でなし。

さて、列車は島原半島の海岸線をなぞりながら、雲仙普賢岳のふもとと海の間をうねうねと走っていく。この景色、なかなか良かったですよーー。(続く)

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2008.03.19

検閲の意図は無くても効果は出る

「政治的に中立でないとカネは出さん」…の傲慢と弛緩 の続報。

映画「靖国 YASUKUNI」の上映を予定していた東京の映画館のひとつが「迷惑がかかる」として上映とりやめ。
(朝日新聞、東京新聞

稲田議員、「検閲の意図は無い」とのことだが、「効果」は出てきたということか。

昔の人はこんなことを言った。

泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭を兼ねている人には勝てねぇってかー。
あぁ、やだねぇ。

映画内容の善し悪しは、見てから議論評論すればいいじゃないの(あくまでも「言論」ですべし)。
「国会議員が問題視して、日本国内では一般公開できなくなった映画」にでもしたいんですか? 泣く子ならびに地頭様方。

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2008.03.17

邪馬台国シンポジウム(3)--墓は語る

3月2日「〜邪馬台国徹底検証 第1弾〜 九州vs畿内」シンポジウムの内容から(続き)。

■高島忠平氏「弥生王国成立と巫女(ふじょ)王卑弥呼共立の過程」

高島氏は考古学の視点から九州説を唱える。

高島氏が注目するのは「墓」である。

紀元前1世紀頃から、人々の埋葬のしかたが大きく変わる。
それまで小集落の近くにバラバラに埋葬されていたのが、集落から切り離された一定の場所に列状にまとめられる。
同時に、一般人とまったく違った様相を見せる墓や大型墳丘墓がつくられ始めた。
銅剣などの副葬品、貝輪をつけた人…、これらは社会階層の分化を物語っている。
また、副葬品を遺体とともに埋葬するのは、被葬者が死後もなお霊力を保ち、祖霊となって社会を導くことを意味するのだという。

この特徴が見られるのが北部九州地域であることから、高島氏は邪馬台国を北部九州だと考えるのである。

単に「埋葬に社会階層の差異が出現した」だけならば、北部九州以外、近畿地方だって大型墳丘墓が出てくるのであるが(しかも、最近の年代研究から、卑弥呼の時代--3世紀前半に当たる墳丘墓が近畿地方に見られることが指摘されている)。

そこで高島氏は「割れた鏡が埋葬されている」話を--。

割れた鏡が棺の外から見つかっている(棺外破鏡)。埋葬されてから割れたのでなく、あえて割った鏡を埋葬したのだ。それは

被葬者あるいはその霊力のこの世への不帰を祈願する呪術行為と考えられる。
(シンポジウムのプログラム、高島氏の講演概要より引用)

のだという。

棺外破鏡が見られるのは、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓、平原遺跡(福岡県)の甕棺墓など、九州北部である。
ここにこそ、大きな霊力を持つ「巫女王」の成立がある、と高島氏は言うのである。

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スライド「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」(吉野ヶ里遺跡建造物想像図)

※高島氏は「ミスター吉野ヶ里」として知られる。

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2008.03.14

「政治的に中立でないとカネは出さん」…の傲慢と弛緩

ちょっと前から気になっているニュース。

映画「靖国 YASUKUNI」

…「政治的中立性に問題がある」と、一部国会議員が一般公開の前に試写会を要求。
試写の後、「助成が適正だったか検討したい」と話す。

asahi.comの魚拓「国会議員横ヤリの「靖国」試写会に80人 偏向指摘も」
(2008年3月12日)をご覧ください。

この要求をした国会議員(稲田朋美議員ら)の傲慢さには恐れ入る。

「政治的中立性に問題がある」って、この方々は政治的中立性を正しく判定できる神様ですか?
自分だって全然「中立」じゃないじゃん。ある思想信条があって議員になり、思想信条に基づいて議員活動しているんでしょ?
自分らの思想信条は、一般市民の表現活動(によって発現される思想信条)に優越し、助成金出すの出さないのの権限を発動できると考えているのかと。
独裁国家にはありがちだけどね。こういうのは。

それと、この人たちは自分が「常に」政権与党にいて力を持っていられると思っているのかな。実態としては小泉郵政選挙のバブル票で当選したってとこだろうに。
今後政権交代なんかがあって、違う考えの人が内閣つくる可能性もあるのに。

もしも彼らと異なる思想信条の人が首相や文科相になって、「靖国を支持するような、中立でない活動に助成金は出さん」と言ったらどうなのか。
「そうなったら、それは当然受け入れる。権力を持つとはそういうことだ」とまで考えているのだろうか。

教育基本法改正に関して小熊英二氏が語っていたことを思い出す。

教育基本法改正 インタビュー(下)

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2008.03.12

ひっかかる標識

おもしろいわけではないし。
困っているわけでもないが。

↓この標識(クリックで拡大)
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「県庁西」
Prefectural Office Nishi
INTERSECTION

なぜに 西 だけ、日本語?

で、この表記は、日本語より英語のほうがわかる人にとって、どうなの?
Nishi でわかるのかなあ。

もちろんこの場所は県庁の西にあるから県庁西なのであって、「にし」が固有名詞だという話は聞いていない。

こんなことを県に問い合わせるのもはばかられるので放置しているが
どうにもひっかかってしょうがないのである。

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2008.03.11

邪馬台国シンポジウム(2)--邪馬台国は南にあり

3月2日「〜邪馬台国徹底検証 第1弾〜 九州vs畿内」シンポジウムの内容から。

■吉村武彦氏の基調講演「魏志倭人伝と邪馬台国」
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魏志倭人伝(正しくは「『三国志 魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条」)を元に、邪馬台国論争のあらましをお話ししてくださった。

ポイントの一つとして、「当時の魏は邪馬台国をどう認識していたか」を上げておられた。

(「倭人伝」の)第二段に「その道里を計るに、当に会稽・東冶の東にあるべし」と記されている。現在の地名でいえば、浙江省(せっこうしょう)・福建省の東方海上ということになろう。
〈中略〉
当時の中国は、魏・蜀・呉が抗争する三国時代であった。魏国にとって、邪馬台国は呉国の東方海上に位置する国であり、対呉国の政策上きわめて重要な国であると認識されていたのである。

(シンポジウムのプログラム、吉村氏の講演概要より引用。( )内は引用者)

浙江省・福建省の東方海上といえば、だいたい沖縄のあたり。つまり、魏は倭国を実際よりだいぶ南のほうに延ばした島国だと思っていたのである。
この認識にもとづいて倭人条が書かれたことが、邪馬台国の場所論争を生んだのだろうなあ。

邪馬台国への行程をそのまま読むと、九州をはみ出した南の海上になってしまう。
邪馬台国=畿内説では距離的には合うが方角が違う。
邪馬台国=九州説では方角は良いが距離が合わない。
(沖縄本島が邪馬台国だ、という珍説はナシね。Wikipediaには「琉球説もある」と書いてあるが、今のところお目にかかっていない)

吉村氏は九州説・畿内説いずれを支持するか明言しなかったが、「倭国は南に延びている」話を出したのは、畿内説を有力視しているからではないかな、と私は思った。3世紀頃にあっては、距離を誤解するより方角を誤解するほうがありそうだからだ。

この後の講演で、水野正好氏は畿内説の立場から「南に行く」を「東に行く」に変換して考えるのが妥当だと主張された。

※会場からの質問(紙)で、「自説の都合で変換しちゃいけないんじゃないか」というのがあったが、南を東に変えるのは根拠のない思いつきではない。
上記のように、倭国は南のほうだと認識する記述があるし、古代から中世にかけて中国や朝鮮半島ではそうした「日本列島観」があったとする資料もある。
「南」を「東」に変換することが妥当かどうかはともかく、根拠のある説ではあるのだ。

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2008.03.09

上川端商店街に銀河

上川端商店街のアーケードに銀河が出現。
(銀河、と言っていいのかな。別のものを表現しているならごめんなさい。私にはそう見えたので)

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地方の商店街、最近は「シャッター通り」なんて言われて衰退が目立つ。
上川端はまだ賑わっているほう。

住居に近い商店街は、車に乗る必要がなく、高齢者や子連れの人が気軽に行けて、日常の買い物にはとっても便利で良いんだけどなぁ。

福岡の商店街ブログをみつけた。→ふくおか商店街blog あちこち聞きある記

お店の紹介記事が良いです。

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2008.03.04

邪馬台国シンポジウム

「〜邪馬台国徹底検証 第1弾〜 九州vs畿内」シンポジウムに行ってきた。
(3月2日、福岡市中央区天神 都久志会館にて)

Yamataiお馴染みの(笑)邪馬台国論争である。

江戸時代から

「邪馬台国は九州だ」「いや、畿内(大和)だ」

と、主に二手に分かれて、果てしのない論戦が続いている。

今、ホットな話題でもないのに、会場は大入り満員。
定員600人のところ、応募者は1,100人だったそうだ。
やはり邪馬台国は人気があるのだ。
(事前にネットか葉書で応募し、私は幸運にも当たったのです)

講演:
基調講演「魏志倭人伝と邪馬台国」 明治大学文学部長 吉村武彦氏
【九州説】「弥生王国成立と巫女(ふじょ)王卑弥呼共立の過程」 佐賀女子短期大学学長 高島忠平氏
【畿内説】「邪馬台国大和説の夢を語る」 奈良大学名誉教授 水野正好氏

討論:
コーディネーター 九州大学名誉教授 西谷 正氏
パネリスト 吉村氏 高島氏 水野氏

*  *  *

この論争は、今すぐに決着のつく話ではない。
1日どころか数か月討論を続けたところで、結論は出ない。
各説の依って立つところが違っているからだ。

私の関心事は「邪馬台国どこにあった?」ではなくて、弥生時代後期からヤマト王権成立に向けて、社会がどう変わったのだろうか、というあたり。

「魏志倭人伝」の読み方など、論点は何度も繰り返されているけれど(各国への行程放射説・連続説、距離と方角の矛盾解消法、等々)、そうこうしているうちに弥生時代と古墳時代の考古学的背景が変わってきたわけで。役者は同じだけど舞台装置と照明効果が違ってきたみたいな感じかな。

最近の研究成果から邪馬台国がどう捉えられているか…に触れることができたらいいな、と思いながらシンポジウムを聞いたのだった。

(内容は後日書く予定)

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2008.03.03

ドアラが新聞に出ていた

ドアラ(中日ドラゴンズマスコットキャラクタ)が新聞に載っていた。
中日新聞とか中日スポーツでなく、朝日新聞に。

朝日の土曜版「be」に「クリーンヒット」というコーナーがある。
ヒット商品・製品を毎回紹介するのだが、ここにドアラ堂々の登場!

ドラゴンズの愛すべきマスコット・キャラクター「ドアラ」は、もはや中日ファンだけのものではなかった!
(記事より引用)

そーなんです。
ドアラの親方であるドラゴンズは強い割に地味で、視聴率も悪い(地元以外では)らしい。
なのにドアラったら、中日ファン、野球ファンを超えてどえりゃー人気だがや。

ドアラ人気の秘密、それはスポーツチームのキャラクタ「らしくない」ところにあると見た。
なにしろ、シャキッとしてない(だいたいダラ〜っとしている)
胸を張ってない(猫背)
肩がいかってない(なで肩)
眉がつりあがってない(八の字眉)
動きがキビキビしてない(挙動不審)
つまりマッチョぽさがないの。お前やる気あんのかと言われそう。

こんなユルユル加減が不思議な魅力になってるんだよねきっと。

(だけど、あんな大きな頭をつけてバック転できるのだから、運動能力は相当あるようですよ)

記事によれば、先月出版したドアラの本
「ドアラのひみつ かくさしゃかいにまけないよ」(ドアラ・著 PHP研究所 ¥1,050)
には事前の予約が殺到し、急遽、初版を10倍に増やしたとか。
すごいなー。
アマゾンで13位になってるし。

ドアラはハンコも持ってるし(笑)

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2008.03.01

福岡城のお堀とレンコン

福岡城のお堀に関して、こんなエピソードがある。

明治11年(1878)、福岡県は肥前堀と中堀(紺屋町堀のこと--引用者注)で蓮根の栽培を始めた。
(「古地図の中の福岡・博多」海鳥社・刊 宮崎克則・編 p.36)

お城の堀で蓮根栽培ですか(^^)
なんだか、のどかというか牧歌的な感じがするが…。

同書によれば、二つの堀は明治26年に黒田家に下附され、蓮根の収益金は修猷館(中学校:現・県立修猷館高校)と光雲神社(黒田如水・長政を祀る神社)に寄付されたとか。
黒田家(旧藩主)の人々は明治維新後東京に移住したはずだけど、福岡の堀の所有権を持ったということかな?
蓮根栽培の作業は誰がしたのだろう。旧藩士がボランティアでやったんだろうか。
(元武士が水に浸かって作業するとも思えないので、使用人にやらせたとか)
修猷館に寄付というのは、福岡藩の藩校だった縁だろうが、その頃はもう県立の学校になってたんじゃ…。
当時の契約関係はようわかりません。

そういえば今も福岡城のお堀にはハスの葉がいっぱいある。
しばらくしたら城内の桜も咲くし、花見に行ったときは「お堀で蓮根栽培」を思い起こすことにしよう。

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古地図を見るのもダテではない(古地図と地震)

古地図を熱心に見るのは、地図マニア、歴史マニアだけではないのだ。

2005年福岡西方沖地震。福岡市内外に被害をもたらした。
被害状況を調べたら、市の中心部においては、大濠公園東側の「ある狭い地域」に被害が大きかったそうである。

「ある狭い地域」とは、

昔、福岡城のお堀だった所を埋め立てた地域

だとか。

詳しくは、京都大学の福岡西方沖地震被害調査のサイトをどうぞ。
調査したのは京都大学防災研究所、京都大学都市社会工学専攻の方々と九州工業大学技官。

先生方は江戸時代と明治23年の福岡市地図を参照。
昔はお堀(または川)であり、現在は埋め立てて建物が建っている箇所に、より大きな被害が発生したことを確認している。

福岡城のお堀。今は北側と西の大濠公園だけだが、江戸時代には城をぐるっと囲む形になっていた。
東は現在の赤坂1丁目・大名2丁目・天神2丁目・天神1丁目をずずずっと貫通して那珂川まで水路がつながっていた(この区域を紺屋町堀、肥前堀と言った)。
明治の終わりから大正にかけて埋め立てが進み、西鉄福岡駅や岩田屋、福岡市役所庁舎など大きな施設が並ぶことになったのである。
(元がお堀だったから大規模施設が作れたと言えるかな)

川の形を変えたり海を埋めたり干拓したり…は江戸時代から盛んにやってきたことだから(徳川家康は利根川の水路を変えて江戸の町をつくった)、防災研究でも古地図の出番はあるのですね。

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