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2009.06.29

阿修羅像を造らせた人・藤原光明子

九州国立博物館(太宰府市)で「国宝・阿修羅展」が開かれる。
(7月14日〜)

「興福寺創建1300年記念」と銘打っている。
あぁ、そうか。…興福寺は平城京遷都と同じ年に創建されたんだ。
平城京は藤原氏がプロデュースして造営した都だから、藤原氏の氏寺である興福寺も同時に建立したんだね。

阿修羅像を始めとする八部衆像、十大弟子像、釈迦如来は、興福寺西金堂に安置されている。西金堂を建てたのは、当時の帝・聖武天皇夫人の藤原光明子(安宿媛あすかべひめ、光明皇后)。

光明子の母・橘三千代が亡くなり、一周忌の供養として西金堂と多くの仏像を造らせたとのことだ。

写実性と豊かな表情を持つ仏像たち。しかし、これらの仏像が造られたのは、「天平」の元号とは裏腹に、不安と政治謀略がうずまいていた時代だった。

【光明子の周辺年表】

724(神亀元)年、聖武天皇即位
728(神亀5)年、天皇と光明子の息子(皇太子)が1歳で夭逝
729(神亀6)年、長屋王の変(対立した藤原四兄弟の陰謀とも言われる)
729(天平元)年、光明子、「皇后」の称号を得る
730(天平2)年、光明子、施薬院と悲田院を設置させる
733(天平5)年、母・橘三千代の死
734(天平6)年、興福寺西金堂を建立(阿修羅像等を造る)
737(天平9)年、藤原四兄弟(光明子の異母兄)が天然痘により相次いで死去

光明子という人、親族は超・強力な人ばかりである。
父は飛鳥・奈良時代政治の実質的なトップ、藤原不比等
母はゴッドマザー、橘三千代(後の左大臣・橘諸兄の母でもある)
兄たちは不比等の後を継いで政治を仕切る
夫は天皇
姉(異母姉)は天皇の母、藤原宮子

この世に怖いものなんかなさそうな(^^;)
だけど、聖武天皇との間に生まれたひとり息子(皇太子)は幼くして亡くなってしまった。藤原氏の血を引く天皇になるはずだったのに。※聖武天皇自身が藤原宮子の子だから、藤原の血はさらに濃くなる。
この皇太子の死が、光明子を仏教に深く傾倒させたに違いない。

いかに強力な権力があっても、人の生死・病には無力で、神仏に祈るしかないものね。
母親の死によって、光明子の気持ちは一気に高まったのかもしれない。

興福寺の阿修羅像は少年の風貌をしている。
インドでは「阿修羅」は軍の神であり、いつまでも戦いを挑み、激しく怒っているものだそうだ。日本でも三十三間堂・二十八部衆の阿修羅は怖くていかめしい顔だが、興福寺の阿修羅はもの静かで寂しげでさえある。

光明子は興福寺西金堂建立に当たり、亡くなった皇太子の面影を求めたのかな…。
生きていれば7歳になっていて、皇太子として本格的教育ができる頃。
そんなことを考えて、仏師に「少年像」を造るよう命じたのかも。

阿修羅以外の八部衆像にも「男の子」姿がある。特に「沙羯羅(さから)立像」は身長とアンバランスな童顔で、より幼さが漂う。

皇太子を阿修羅や沙羯羅で表現しちゃったらマズいんじゃないの? とも思うが、表向きはともあれ、光明子は少年顔の像を見るたびに幼い皇子を想ったのではなかろうか。

※興福寺八部衆像が少年の顔で表される理由は他にあるのかもしれません。光明子とその皇子の話を結びつけるのは私の妄想です。

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