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2010.12.14

薄命の皇女・大田皇女(墓が発見されたそうです)

朝日新聞12月10日付朝刊に「中大兄皇子の娘の墓か--奈良・牽牛子塚古墳の20m横 日本書紀記述と一致」の記事があった。

中大兄皇子(後の天智天皇)の娘とは、大田皇女(おおたのひめみこ)のこと。
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:後の持統天皇)の同母姉。
鸕野讃良皇女と同じく、大海人皇子(後の天武天皇)の妻である。

大田皇女と鸕野讃良皇女。
ともに中大兄皇子の娘で、夫は大海人皇子、歳はあまり違わない姉妹。
立場的にほぼ同じ二人の皇女であるが、その人生は大きく違ってしまった。

…いや、大田皇女は24歳くらいで亡くなってしまったので、その時点で大田皇女と鸕野讃良皇女とで大差はない。
大田皇女が早く亡くなり、鸕野讃良皇女が58歳まで生きたことで、鸕野讃良皇女の立場と彼女たちの子どもの運命に大きな違いが生じたということなんだけれども。

〈大田皇女関係の系図〉
Ohta_keizu

大田皇女の子--大伯皇女(おおくのひめみこ:大来皇女の記述もある)と大津皇子
鸕野讃良皇女の子--草壁皇子
大伯皇女:661年生まれ。草壁皇子:662年生まれ。大津皇子:663年生まれ。ちょうど1つずつ違う。
3人とも、百済救援~白村江の戦のさなかに生まれる。大田皇女と鸕野讃良皇女は斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子に帯同し、九州に向かう途中の地や九州で出産したと伝えられている。

白村江の大敗の4年後頃、大田皇女は20代前半の若さで亡くなる。
大海人皇子は壬申の乱に勝利して即位、鸕野讃良皇女は皇后となる。
天武天皇治世の末期、草壁皇子は皇太子になり、大津皇子も政治に参画する。
だが、天武天皇の死後まもなく、大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ、自死(686年、享年24)。

「大津皇子謀反」は、持統天皇の陰謀説、実際に大津に皇位奪取の行動があった説などがあり、真相はわからないが、あまりに似た立場、強力なライバルというのは、「皇位を継ぐか、さもなくば死か」という苛烈な選択になってしまうのかね。彼らの父、天武天皇自身も、甥の大友皇子を滅ぼして帝位に就いたのだし。

もしも大田皇女が丈夫で長生きしたなら、年齢からして彼女が皇后になっていただろう。そしたら、大津と草壁は逆の運命になっていたかもしれない。

大田皇女については詳細な記述がなく、明確な生没年も亡くなった事情もわからない。
ただ、早すぎる死と、遺児・大津皇子の最期、大伯皇女の弟を想う歌(万葉集所収)から、悲運薄幸の母子の物語が紡ぎ出されたことは確かなようだ。

大津皇子事件について、三浦佑之「創られる悲劇-大津皇子」が興味深い。

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