福岡タワー--クリスマスバージョン
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プロ野球、リーグ戦が再開したらドラゴンズは連敗だ。あいたた…。
んなときに、ドアラは九州旅行していたんだって。
↓予告編↓
中洲で遊んでいたとか。温泉につかっていたとか。
悪魔にもなったとか(ん?)
本編は中日スポーツWebで。別府編公開中。
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長崎新幹線建設にはさんざん文句をつけたが、交通機関として鉄道(新幹線含む)は優れていると思う。エネルギー消費、環境への負荷、安全性、定時性の点で。
というわけで、福岡から東京に行くのもできれば新幹線を使う私。
京都を過ぎ、米原あたりで急に雪景色。
関ヶ原付近は雪で止まってしまうことがある。
この日も徐行運転。
(それにしても岐阜羽島駅は「政治駅」と言われた。ある政治家の地元? 今建設中の九州新幹線鹿児島ルートにも「なんでここに駅?」と思われる駅ができる模様)
今でも山陽新幹線の「こだま」として走っている。
もうすぐ引退だと聞いた。今年の秋だっけか。
現役で使われている姿を見られてよかった(^^)
その横顔は心なしか哀愁を帯びている…ように見える。
長い間お疲れ様。
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マイフォト・九州たび旅(柳川)に写真を追加しました。
御花の西洋館。明治時代にできた「柳川版鹿鳴館」です。
一昨年の福岡西方沖地震は、御花もだいぶ被害があったそうです。
TVのニュースではちょうど雛祭り水上パレードの最中にグラグラっと揺れた映像がありました。
先頃、西洋館などの補修が終わりました。柳川も大きな地震の無い土地なので、創建以来の災難だったかもしれません。
補修の際に、建築当時の姿に戻す工事も行われたとか。私は地震前の御花を何回も見ていたけれど、どこがどう変わったかはわかりません。
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マイフォト・九州たび旅(柳川)に写真を追加しました。
御花(おはな)とさげもんの写真です。
御花は旧柳川藩主の別邸の名称。古い地図では「お花畠」とあるので、花畑だったところに別邸をつくったのかもしれません。
御花は日本庭園の松濤園と本館、西洋館、史料館があります。
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ホテル・博多東急インが5月16日で営業終了した。
その最後の夜の写真。
那珂川沿いの天神側に建ち、川を渡れば中洲というロケーション。
外壁のライティングがかっこいい。
あらためて眺めると、隣に赤煉瓦文化館があったんだなと今さら気づく。
赤煉瓦文化館は明治時代の煉瓦造りの建物で、福岡に残る数少ない「昔の洋館」である。東京駅と設計者が同じで、様式も同じだとか。
明治末・大正の頃は威容を誇った建築物も、戦後のビル・ホテルに並ぶととっても可愛らしい。
博多東急インが開業したのは昭和44年で、偶然だがその年に赤煉瓦文化館が国の重要文化財に指定され、福岡市に譲渡されたそうだ(それまでは生命保険会社の所有)。
40年近く続いたお隣さん。なお、東急イン終業後、ホテル自体はなくならず、西鉄ホテルになると聞いた。
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現役では世界最古の客船・ドゥロス号(Doulos)が博多港に停泊中。
建造はなんと1914年だという。
(第一次世界大戦の頃ですね…)
タイタニック号の2年後輩だとか。
碇も年季が入っている。
船内は書店になっていて、たくさんの絵本や洋書が並んでいる。
料理の本が綺麗だったけど、英文のレシピでは実用的にちょっと…なので、代わりに懐かしいディズニーアニメ本“Sleeping Beauty”(邦題:眠れる森の美女)を買った。
ドゥロス号は「書店の船」として世界を回り、本は60万冊あるという。
もともとは貨物船として造られたドゥロス号、その後移民船や高給客船に変わり、古くなって廃棄されようとしていたのをドイツの慈善団体が購入して「洋上書店」に生まれ変わった。船で働くスタッフはみなボランティアだとのこと。若いスタッフたちが「Hellow」「コンニチハ」と声をかけてくれた。
“GBA”と書かれている。GBAは Gute Bucher fur Alle(ドイツ語:英語ではGood Books for All)の頭文字。
乗船は無料で、次の土曜・日曜の夜にはカフェの利用もできるらしい。
博多には21日まで。24日から6月5日まで金沢港、6月7日から18日まで新潟港に泊まる予定。
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マイフォトに九州たび旅(柳川)--川下り--をアップしました。
柳川の城下町をドンコ船で小1時間かけてまわりました。
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マイフォト・九州たび旅(平戸)に写真を追加しました。
この時は平戸・教会めぐりだったのでまた教会の写真です。
正面は煉瓦造りだけれど後ろは木造の平屋、と、つくりが変わっている。
木造のほうはベランダ付きの洋風建築。長崎市の洋館によく似ていた。
ここも紐差(ひもさし)教会から分離したのだという。
海のそばの丘の上にあるので眺めがとても良い。
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マイフォト・九州たび旅(平戸)に写真を追加しました。
木ヶ津(きがつ)教会。
海岸から山のほうに入って細い道を行くと、村の集会所のような素朴な教会が。
明治時代に開拓で移住してきた人たちが信者だとか。
もとは紐差教会に所属して通っていたが、昭和37年にこの地区に教会を建設したとのこと。
紐差教会へは約4kmだそうで、当時はみな歩いて行ったのですね。
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柳川の雛祭りに行った。
柳川といえば、「さげもん」なのですよ。
さげもん というのは、手鞠や布製の小物を下げた飾りのこと。
柳川地方の風習で、初節句に母親や祖母たちが手作りしてお雛さまと一緒に飾る。
写真は柳川藩主の別邸「御花(おはな)」に飾られたさげもん。
部屋に入ったら思わず「わぁ!」と言ってしまった。
緋毛氈の雛飾りも立派なのだけれど、いっぱいのさげもんがぁあ…。
お花畑かというように咲き誇って(確かにここは「お花」)。
手鞠や小物の一つひとつが可愛らしく、丁寧にできている。
小物のモチーフは、鶴・兎・宝袋・鶏・海老などの縁起物。這い這いしている赤ちゃんの人形もあるし、丸々と太った金魚はご愛敬。
…しかし、これ作るの大変よね。私が柳川で子どもを生んでいたら、手芸は好きなほうだから、子どもそっちのけでさげもん作りにハマってそう。いやーあぶないな。孫が生まれたらプレゼントというのはいいかもしれない。
* * *
さげもんは御花のほか市内各所の商店に飾られ、「さげもん館」や観光案内所でも見られます。
柳川雛祭りは4月3日の「流し雛」まで行われますので、桜と共にさげもん、お雛さまを見に行ってみられたらいかがでしょうか。
柳川への交通:西鉄天神大牟田線「柳川」下車。福岡から特急で45分。
柳川駅から御花までは2km。ドンコ舟で約1時間(船頭さんの解説付き)。
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←銀屋町の通り。将棋の駒に「銀」の大きな文字が。
東古川通りとアルコア中通りの交差点。
「アルコア」って珍しい通り名だけど、由来は何だろう。
思いつくのは「北斗七星の近くにある四等星の名前」。
子どもの頃読んだアルセーヌ・ルパンの話で知った。
裸眼で見えるか見えないかの明るさなので別名「視力検査」という。
(ルパンの話は、この星の位置に財宝のありかの謎が隠されているとかいうのだったかと。もうストーリーも書名も忘れてしまった)
それに関係あるのか無いのかは知らねど、アルコア中通りは長崎で最も古い商店街で、洒落たお店が並ぶ所。
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長崎市中心部の旧町名が、2007年1月に一部だけど復活した。
復活したのは「銀屋町」と「東古川町」。
41年前の住居表示変更(町名町界変更)で古川町と鍛冶屋町に再編されていた地区を、江戸時代からの町名に戻したんだって。
銀屋町は銀細工の職人が住んでいたことから江戸時代初期に名付けられた。「銀屋」は日本に一つしかない町名だとか(細工町ならあるんだけど)。
長崎くんち祭りで銀屋町を単位とする奉納踊りを続けていることも、町名復活の力になったのだろう。
こういう旧町名復活が正式になされたのは金沢市に次いで2番目。
博多でもあるといいんじゃないかな。土居町とか。「土居流」として山笠やっているのだし。
←写真のように、公式復活は(まだ)していないが、旧町名を表示しているところもある。「磨屋(とぎや)町」って、銀屋町と同じく、江戸時代、明治時代の生活が思い浮かんで味わいのある名前だ。
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長崎奉行所を再現した建物と、歴史展示スペースがある。
実際にあった奉行所に忠実に造ってあるみたい。
最近は「歴史に忠実に」が主流コンセプトらしいから。
(数十年前は、復元されたお城に実際には無かった天守閣をつけるとかの「偽装」が結構あったそうだ。見栄えを考えたのだろうけど、そりゃいけませんわね(笑))
館内で「長崎奉行の執務」の立体映画が上映されていた。
江戸から赴任した第84代長崎奉行・遠山左衛門尉景晋の1年を描いている。
遠山景晋(風間杜夫さんが演じた)は、あの遠山の金さんのお父さんなんだそうである。
奉行は、今でいうと知事・市長・警察署長・裁判長を兼ねたような大役。長崎はさらに外交があるので外務省高官もやったことになる。報酬は超高給。…しかし、激務で在任中の死亡も少なくなかったとか。
←奉行所の正門
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長崎は平地が少ない。
県庁所在地で平らなとこがこんなに少ない市はほかにないんじゃないか(地元の人が「すり鉢の底みたい」と言っていた)。
中島川から一段高い所、山の斜面にお寺がキチキチと並んでいる。こういう所でお寺の敷地を確保するのも大変ですなー。
写真は興福寺のひとつ隣の三宝寺。
石段をだいぶ昇ってきたのに、境内に車が止まっている。
一体どこから上がってきたのだろう?
と思ったら、迂回の車道がお寺の脇から出ているのが見えた。高齢者や身体にハンディのある人が参詣できるように、近年作ったのかなと思う。
ほかにこんなお寺もあり。↓
クネクネとうねった手すり。「クネット」ではありませんか(^^)
クネットは身体を支えやすいように波形にしたアイディア手すり(クネット・ジャパンのサイト)。
高齢化社会の折、お寺さんもいろいろと気遣いをしているようだ。
※長崎のお寺が高い場所にかたまっているのは、幕府の禁教政策の関係もあるらしい。
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三江会所門(さんこうかいしょもん)から鐘鼓楼(しょうころう)を見る。
「三江」とは揚子江下流の江南、浙江、江西のことをいう。
興福寺は三江出身者の菩提寺となっており、唐人屋敷から祀りに来ていたらしい。
明治になって唐人屋敷が解体されたため、興福寺にお堂を建造、さらに会所を作って社交場とした。厨房もあって賑わったそうである。
ところが原爆で会所は大破し、門だけが残されたとか。
(爆心地からはだいぶ離れているのだけれど…。原爆の凄まじさを改めて感じてしまう)
この門も赤く塗られていて、触ると色が付いちゃいますよ、と注意書きがしてあった。
鐘鼓楼には昔立派な梵鐘があったが、戦時の金属供出で差し出したため、今は梵鐘無しなのだそうだ。ただでさえ「中国の寺」は肩身が狭かったと思う。その頃は檀家は日本人だけになっていたらしいが。
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唐寺は赤い色が特徴で、「赤寺」と呼ばれているそうな。
本堂(大雄宝殿)の中。
三尊像があるのは日本の寺と同じなのだが、床が板張りでなく石が敷いてあり、赤色いっぱいなので、仏様まわりの雰囲気がやはり違うなーと。
中央に大きな燈籠が懸かっている。
周囲はガラスでできていて、その名も「瑠璃燈」。
清朝時代に上海から運ばれ、本堂内で組み立てられたという。
清朝といえば、精密で凝った工芸品が盛んに作られた時代だ。
この瑠璃燈も清朝終わり頃の豊かな文化のたまものだけれど、ほどなくして(同時期?)清はイギリスにアヘン持ち込まれるし、欧米列強によってボロボロにされていく。工芸品や金魚を愛でた平和な(著しく不自由ではあっても)社会だったのにねえ。
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去年、崇福寺に行ったのは昼間だった。今年は夜に行こう、と決めていた。
崇福寺は江戸時代初期(寛永6年:1629年)につくられた中国の寺。
その頃、長崎には中国人が大勢いて(6人に1人は中国人だったとか)、彼らが中国から名工を招いてつくったのだそうだ。
キリスト教が禁じられたため、仏教徒であることを示そうとした意味もあるという。
長崎市中にはいくつか中国寺が建造され、福建省出身者がつくったのが崇福寺(「福州寺」と呼ばれた)。南京の出身者は興福寺をつくり、そちらは「南京寺」と呼ぶ。

崇福寺の三門(さんもん)。
お寺の入り口の門で、普通は山門と言うのだが、この門は扉が三つあるから「三門」なのだそうだ。
門の前には狛犬もいる。
上の額に「聖寿山」とある。中国(明)から黄檗宗を広めた隠元和尚の筆による。
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マイフォト「九州たび旅(長崎)」をアップしました。
http://ryuseisya.cocolog-nifty.com/photos/q_shu01/index.html
九州各地を訪ねたときの写真です。
だいぶ前のもあります。おいおい追加する予定。
←左のリンク欄からも行けます。
※マイフォトは「ココログ」の機能。写真だけのページを作ろうと思っていたのだけれど、自分で全部作成するより楽なので使ってみました。
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遠賀川に架かる筑豊本線 飯塚方面行き(下り)電車。 右が先頭車両 |
映画「ALWAYS-三丁目の夕日」に使われた鉄橋がコレ。
場所は福岡県中間市、筑豊本線の中間駅--筑前垣生駅間の遠賀川に架かっている。 映画ではここを蒸気機関車が走り抜ける(そこんとこはミニチュア模型とCG合成)。ただし、この写真を撮った場所は映画の撮影地点とは反対側(川の対岸)なのだ。 下の遠景写真の如く、緑色のトラス橋(△▽△型の橋)の手前にもうひとつ路線がある。映画の鉄橋風景は向こう岸に行かないと見えない。 ※こちらを参照 ところが、トラス橋を渡る電車は映画と同じで左から右へ走っている…。 逆から見ているのに、何故列車の進行方向が同じなのか? そこがCGの都合の良いところで、映画ではSLが逆走しているのだ。 この橋は筑豊本線の下り。北九州市から直方、飯塚方面に向かっている。映画の場面では、本来、右手前から左奥に列車が進まなければならない。 それがどうしたわけか、向こうから汽車がやって来る。 SLがお尻を向けて走るのでは「上京」の感じが出ないからなのか? ならばロケ地を川の左岸・南側(地図では下り線の左下)にすれば良かったのではと思うが、足場とか向こうの風景とか、何か具合が悪かったのだろうか。 いっそのこと、撮影した鉄橋を左右反転させてSLと合成したら、なんてことも考えた。それでは実景と違ってしまうと言っても、もともと、青森からの鉄道を九州で撮影している時点で実際と違うのだし。 …とツッコミを入れたけれど、私は別に映画「ALWAYS」にいちゃもんをつけたいわけではない。ほんの数秒のシーン、普通のドラマや映画なら古いSL映像を流用して済ませるところを、手間ひまかけてレトロな鉄橋を撮影し、CGを駆使して迫力ある映像を作ったのはやはり凄いと思う。 このシーンを「変だぞ」と即座に思った人はあまりいないだろう。よく見れば、鉄道なのに右側通行に見えるとか、東北から上野行きは単線だっけかとか、橋と橋脚の関係が??とか、奇妙な点があるのだが(マニアが見れば更にあるらしい)、上映時、私は全く気づかなかった。 現地に行ってみて初めて「過去においてもありえない風景」であることがわかったのだった。 ちなみに、ここが上下線ともにトラス橋でSLが走っていた頃の写真はこちら。 (古矢眞義さん SL Photo Library) |
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映画「ALWAYS--三丁目の夕日」は良かった。
とにかくCGが凄い。
鉄橋を渡るSL。列車の窓に映る昭和30年代の東京の街。路面電車が走る大通り…。
よくぞ再現したものだと唸ってしまった。
あの鉄橋は遠賀川に架かる筑豊本線だそうだ。
北九州フィルム・コミッションのサイトでロケの写真が見える。
http://www.kitakyu-fc.com/pub/topics/sunset02.html
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「古地図の中の福岡・博多」という本が出版されたと聞き、早速買ってきた。
江戸時代に書かれた地図を読み解き、当時の様子や現在の写真を併せて詳しく解説している。
その地図は、文化9年(1812年)福岡藩家老の三奈木(みなぎ)黒田家が書き写した「福岡城下町・博多・近隣古図」というものだが、サイズが縦横2m以上もあるのだ。地図上に通りの名、町名、民家の軒数、住んでいた武家の名前までもがびっしりと書き込まれている。場所にちなむ由緒や和歌も書き添えられていて、江戸時代の一大都市記録といったところ。
本書では古図とともに現在の地図を参照しているが、両者を見比べると「昔の町も案外しぶとい」と思う。
例えば、福岡城の北部、現在の中央区大名と天神の境目の天神西交差点(左図参照)。
江戸時代には武家屋敷が並び、大名--天神の間をまっすぐに見通せないよう、道路がくい違っていた(防衛のため、城下町はこういう道路が多い)。
明治43年(1910年)に路面電車が開通したが、角地を教会が取得していて、この道を直線に変更できなかったのである。電車は直角に曲がることはできないからS字のカーブで電車軌道を作った。
今は路面電車もなくなり、地下鉄が通っている。その軌道もやはり微妙にS字を描いている。電車通りの真下に地下鉄を通したからだ。
同じように、大名と天神の間の道は「くい違い状態」が多い。開発著しい福岡市街にもまだまだ江戸時代は残っている。
こんな江戸時代の名残を発見、確認できるのは楽しい。そして、同じ楽しみを持つ人がほかにもいることが嬉しい。
「古地図の中の福岡・博多」
海鳥社:刊
http://www.kaichosha-f.co.jp/
宮崎克則・福岡アーカイブ研究会:編
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福岡市博物館の正面にあるエミール・ブールデルの彫像。
4体の男性像・女性像の1つ。堂々たる体躯の量感が素晴らしい。
この彫像群は神奈川県の彫刻の森美術館にもあって、首都圏のTVCMでこういうアングルを見た気がする(昔のことで記憶がおぼろげだけれど)。
福岡市の東の方には亀山上皇像とか日蓮上人像があるが(こちらもデカい。作られたのは明治時代)、西の新しい町には近代彫刻で、好対照をなしている。
博物館の立つあたりは割合最近まで海の中だった。長谷川町子さんはここの海岸で「サザヱさん」のキャラクタを思いついたそうだ。その頃--敗戦後まもなく--は百道松原と呼ばれるほど松林が続いていた。明治41年(1908年)以前の地図には西松原の表記も見える。
今は埋め立て地に福岡タワーやビル、マンションが建ち、変貌著しい所ではあるが、松原は場所を移して存続している。
http://www.nona.dti.ne.jp/~yumematu/index.html(「はかた夢松原の会」)
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西門橋の下流の恵比須橋。西門橋より小さな橋で、歩行者専用となっている(写真の右方面が博多。左奥に見えるのは都市高速)。
名前のとおり、恵比須様がいらっしゃる。
昔の地図を見ると、明治23(1890)年製地図に初めて現れるのだが、どういうわけかその後しばらく消えてしまう。そして明治43(1910)年の地図にまた記されている。
現在の橋のたもとに「明治四十三年五月」の石柱があるので、この年に石造りの橋ができたものと思われる。その前には木製の橋があって、増水か台風かで壊れてしまったのだろうか。そのへんの事情はよくわからない。
明治43年は福岡・博多にとって大きな出来事があった年だ。福博市内電車(路面電車)が開通したのである。
電車はこの石堂(御笠)川も渡ったけれども、通ったのはもちろん小さな恵比須橋ではなく、西門橋と石堂橋の間に新しくできた橋だった。現在は地下鉄が通る明治通りである。
明治末期。日露戦争が終わり、日本全体が近代国家として急速に発展していった頃だ。それまで江戸時代の続きみたいだった町が、ハイカラに変わっていったことだろう。
恵比須橋のすぐ前に恵比須神社があり、150mばかりで沖浜恵比須神社。恵比須さんの多い界隈は、博多祇園山笠の恵比須流の町筋である。
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二つの川に挟まれた博多には、たくさんの橋がある。
私が好きなのは、御笠川に架かる西門橋だ。
江戸時代もこんな風景だったかもしれない
写真は西門橋から見た博多側の河畔。おそらくこの風景は江戸時代とあまり変わっていないと思う。
…いや、本当は変わっているのだけれど。実は背後にあったビルを消してしまったのだ(笑)
しかし消したのは少しだけ。博多駅から1kmほどの市街地だが、こんな風情の場所が残っている。
西門橋は古くからの橋で、江戸時代の博多絵図に描かれている。
(博多旧図:江戸時代後期(九州大学デジタルアーカイブ))
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kochizu/kinsei/hakata.htm
さらに遡れば、戦国時代末期からあったらしい。当時を推定した地図がコレ。
(博多の地理図今昔(博多かまぼこ屋さんのサイト))
http://www.kamabokoya.co.jp/fukuoka-city-nazo/hakatatirizu-konjaku.htm
石堂川とは御笠川の古名。西門橋は石堂川に造られた最も古い橋かもしれない。
西門橋の名の由来
橋を渡って左に折れると聖福寺がある。日本で最も古い禅寺だという。この寺の西門近くの橋だからこの名がついた。かつては西門町という町名もあった。
西門橋から博多方面を見ると、細い道路が町家の中にすうっと引き込まれていくようだ(写真2)。
少なくとも400年前から、対岸の人々はここの橋を通って博多に入った。明治初めに民衆が一揆を起こし、博多に突入した道でもあった(筑前竹槍一揆:明治6年)。
明治初期まで石堂川の橋は西門橋と少し下流の石堂橋だけだった。
その後多くの橋ができ、路面電車や車を通す大きな橋になっていったが、江戸時代からの橋は小規模のままだ。それがちょっと嬉しい。
今の西門橋は2001年に架け替えられたもの。一車線の幅しかなく、昔の雰囲気を残している。
急ぎの用でないのなら、博多に行くときは西門橋を渡ろう。
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